人生に相渉るとは何の謂ぞ(北村透谷)のあらすじ・登場人物
功利主義に抗う文学の自律
- 文字数
- 7,538字
- 読了目安
- 約15分
- 表記
- 新字旧仮名
この作品について
「人生に相渉るとは何の謂ぞ」――文学は世を益する事業であるべきだと説く評論家・山路愛山への反論として書かれた、北村透谷の文学論。文学の価値を実用や事業に還元しようとする功利主義を鋭く批判し、目に見える成果を超えた精神の自由と理想にこそ文学の本領があると主張する。近代日本における芸術の自律を高らかに宣言した名篇である。
あらすじ
繊細で弱々しい文学への反動から、評論家・山路愛山は「史論」という鉄槌を振るい、文章は「事業」であるべきだと唱えた。愛山によれば、文章が尊いのは、それが何かを為し、世を益し、人生に相い渉わるからである。人生に関わらない華麗な美文は、空を撃つ剣にひとしく無価値だという。これに対し透谷は、それでは文学から目に見えぬ理想や精神の働きが締め出されてしまうと反論する。人の営みを目に見える成果や実用の物差しだけで測るなら、「義務」や「事業」や「利他主義」ばかりが崇められ、菅原道真も松尾芭蕉も滝沢馬琴も西行も、みな役に立たぬ者として貶められてしまう。そのような功利の狭い部屋には、あらゆる霊性的な生命が宿るまい。透谷は、文士たるものが目先の実用に縮こまるのを退け、「頭をもたげよ、視よ、求めよ」と呼びかける。高遠な理想を胸に、広く快く雄大な精神の境地を見よ、おのれの憧れ(Longing)を天空に投げ、そこから人間としての天職をつかみ取れ、と。文学を実用や事業の手段としてではなく、それ自体に価値をもつ精神の営みとして擁護した本作は、愛山との「人生相渉論争」を代表する一篇であり、近代日本文学における芸術の自律をうたい上げた記念碑的評論である。
冒頭部(原文より)
繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、異しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ。愛山生が徳川時代の文豪の遺風を襲ひて、「史論」と名くる鉄槌を揮ふことになりたるも、其の一現象と見るべし。民友社をして愛山生を起たしめたるも、江湖をして愛山生を迎へしめたるも、この反動の勢力の欝悖したる余りなるべし。 反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻りに純文学の領地を襲はんとす。反動をして反動の勢を縦にせしむるは余も異存なし、唯だ反動を載せて、他の反動を起さしむるまで遠く走らんとするを見る時に、反動より反動に漂ふの運命を我が文学に与ふるを悲しまざる能はず。愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、第一、為す所あるが為なり。第二、世を益するが故なり。第三、人世に相渉るが故なりと。
「人生に相渉るとは何の謂ぞ」北村透谷(青空文庫)
末尾部(原文より)
頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広濶なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾の Longing を空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの天職を捉り来れ、嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ。
「人生に相渉るとは何の謂ぞ」北村透谷(青空文庫)
原文を読む
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