葛飾土産(永井荷風)のあらすじ・登場人物
市川の梅と真間川の行方
- 文字数
- 9,252字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
- 舞台
- 千葉県
この作品について
戦災で麻布の偏奇館を失った永井荷風が、千葉県市川に移り住んでから書いた随筆。各章の末尾に昭和22年(1947年)の日付があり、1950年に中央公論社から出た戦後最初の作品集『葛飾土産』の表題作となった。石川淳が「戦後はただこの一篇」と評したことで知られる。菅野の農家の垣根に咲く梅、市川の町で耳にするかつての東京の物売りの声、震災前後に埋められた東京市中の溝川の一覧、西洋草花や果物の流行の移り変わり、葛飾の路傍に見つけた大田南畝筆の碑、真間川の流れを海の近くまでたどる散策を、短い章を連ねて綴る。戦後の荒廃の中に残る田園の風景を、江戸以来の東京の記憶と重ねて眺める文章である。
あらすじ
市川の菅野に移り住んで二度目の春、わたくしは農家の垣根に咲く梅を心待ちにしている。戦災の後、むかしの向島を思わせる風景が残っていたのは思いがけない幸せで、松毬を拾って薪にし、野菜を買いに八幡や中山まで歩く。梅を愛でるには漢文や和歌俳句の素養が要り、現代の日本人が祖国の草木に冷淡になったのも運命の為すところだと考える。市川の町で聞く物売りの声は四、五十年前の東京を思い出させ、わたくしはかつて日誌に記した、震災前後に埋められたり暗渠になったりした東京市中の溝川を、区ごとに書き並べる。郊外の開発、コスモスなど西洋草花の流行、銀座の繁華、食後に果物を食べる習慣の広まりを振り返り、大正の豊かさが今日の衰亡に終わったことを思う。京成の葛飾駅近くの榎の下では「葛羅之井」の碑を見つけ、貼り紙を洗い落として大田南畝の筆と確かめる。千葉街道で出会った小川が真間川の末と知ると、流れの行方を見きわめたくなり、諏訪田の水田、石づくりの堰、やなぎばし、妙行寺の森を過ぎて原木の村まで歩く。子供に海まではまだ遠いと教えられ、初冬の日が傾くなか、わたくしは海を見ずに引き返す。
冒頭部(原文より)
菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾の綻びるのを待っているのだ。 去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花の咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの身に取っては全く予想の外にあったが故である。戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。
「葛飾土産」永井荷風(青空文庫)
末尾部(原文より)
海まではまだなかなかあるそうである。そしてここは原木といい、あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。 寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。 わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。
「葛飾土産」永井荷風(青空文庫)
原文を読む
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