狐(永井荷風)のあらすじ・登場人物
あの狐退治の日から
- 心理
- 文字数
- 9,732字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
ツルゲーネフの伝記を読んでいた「私」が、小石川の生家の古庭を思い出す。古井戸と老柳の茂る崖下に狐が出ると騒がれ、父や書生、鳶の者たちが雪の朝に穴をいぶして仕留める。そして狐が鶏を取ったからといって、その鶏まで潰して酒盛りが始まる。幼い日の残酷な記憶を静かに語り、裁判や懲罰というものへの疑いがそこから芽ばえたと結ぶ、荷風の自伝的な短篇。
あらすじ
冬の午後、「私」はツルゲーネフの伝記を読みながら、小石川金富町の生家の古庭を思い出す。旗本屋敷の跡を買い占めて建てた家の崖下には、埋め残された深い古井戸と朽ちた柳があり、幼い私にとって夜はその井戸の底から湧き出るものだった。盗賊が入った一件以来、その一隅は一家じゅうの恐怖の的となる。ある秋の朝、大弓を引いていた父が、崖の熊笹から狐が飛び出したと騒ぎ、学僕の田崎が天秤棒を持って庭中を探し回るが見つからない。御飯焚きのお悦は狐を殺すのは家に不吉だと言って叱られ、母と乳母はひそかに油揚を捨てて機嫌をとった。やがて騒ぎは忘れられ、冬が来る。二月の雪の朝、鶏小屋が荒らされ、雪の上に足跡が残っていた。父、書生、車夫、鳶の頭、植木屋が総出で穴を硫黄でいぶし、首を出したところを鳶口の一撃で仕留める。天秤棒に吊るされた獲物を前に、私は割れた頭から滴る血を見て母の袖に顔を隠した。その日の午後、魚屋の仕出しが間に合わないからと、私が毎日餌をやって育てた二羽の鶏が潰され、大人たちは夜更けまで酒を飲んだ。鶏を殺したといって狐を殺した人々が、さらに鶏を殺したのだ――眠りながらそう思ったことが、裁判や懲罰への疑いの芽になったのかもしれないと私は書く。
登場人物
- 私 小石川金富町の屋敷に育った少年時代を回想する語り手
- 父 太政官時代の官吏。毎朝大弓を引き、狐退治の指揮をとる
- 母 私をかばう優しい人
- 田崎 父と同郷の学僕。狐を撲殺すると力む
- 清五郎 出入りの鳶の頭。鳶口で狐を仕留める
冒頭部(原文より)
小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。 ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は何時となく理由なく、私の生れた小石川金富町の父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思い浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町に水道の水が、露草の間を野川の如くに流れていた時分の事である。
「狐」永井荷風(青空文庫)
末尾部(原文より)
眠りながら、その夜私は思った。あの人達はどうして、あんなに、狐を憎くんだのであろう。鶏を殺したとて、狐を殺した人々は、狐を殺したとて、更に又、鶏を二羽まで殺したのだ。 ああ、ツルゲネーフは、蛇と蛙の争いから、幼心に神の慈悲心を疑った。私はすこしく書物を読むようになるが早いか、世に裁判と云い、懲罰と云うものの意味を疑うようになったのも、或は遠い昔の狐退治。其等の記念が知らず知らずの原因になって居たのかも知れない。
「狐」永井荷風(青空文庫)
原文を読む
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