郷愁の詩人 与謝蕪村(萩原朔太郎)のあらすじ・登場人物
蕪村を「郷愁の詩人」と読む
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- 39,177字
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- 新字新仮名
この作品について
萩原朔太郎が1936年(昭和11年)に刊行した評論。詩人・朔太郎が、俳人でも研究家でもない一詩人の立場から、与謝蕪村の俳句を論じた文芸批評の名著である。子規以来「写生」の語で片づけられてきた蕪村の句に、近代詩人の感性で「郷愁」の抒情詩としての本質を見いだし、その詩美とポエジイをあざやかに読みひらいてみせる。芭蕉論もあわせて収め、俳句批評に新生面を開いた一冊である。
あらすじ
蕪村や芭蕉の俳句をめぐっては、近ごろさかんに多くの研究文献が輩出している。しかし――と朔太郎は説き起こす――従来の蕪村論・芭蕉論は、みな専門の俳人の手になるもので、修辞や考証には行き届いていても、俳句の本質であるリリック(抒情詩)の真精神を、意外にも忘れているものが多い。とりわけ蕪村の俳句は、子規以来ただ「写生主義」の一語で定評づけられ、その真の詩的精神――俳句のエスプリする哲学原理――が批判されてこなかった。専門の俳人ではないが、詩人として自由で新しい鑑賞眼をもつ「著者」は、蕪村の句のうちに、近代人の感じる切ない「郷愁」の情緒を読みとってゆく。宗匠的なレトリック観からではなく、句の背後に脈うつポエジイと、その主観を貫く哲学から、蕪村の詩美を鮮やかに読みひらいてみせるのである。俳句がまぎれもない抒情詩であることの本義を説き、わずか十七文字にこれほど深遠で複雑な感情を盛りうる文学は、世界に日本の俳句しかないと結ぶ。子規以来の「写生」の定説をくつがえし、蕪村を「郷愁の詩人」として蘇らせた、詩人・朔太郎ならではの俳句批評の名著である。
冒頭部(原文より)
蕪村や芭蕉の俳句に関しては、近頃さかんに多くの研究文献が輩出している。こうした時代において、著者の如く専門の俳人でもなく、専門の研究家でもない一詩人が、この種の著書をあらわすということは、無用の好事的余技の如く思われるが、決してその然らざる必然の理由があるのである。というのは、従来世に現われている蕪村論や芭蕉論は、すべていわゆる俳人の書いたものであり、修辞や考証の解説上で、専門的に入念を極めた絶好の書であるけれども、俳句そのものの本質しているリリックの真精神を意外に忘却しているものが多いのである。
「郷愁の詩人 与謝蕪村」萩原朔太郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
この秋は何で年よる雲に鳥 老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた楽しみである。空には白い雲が浮び、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになってしまったという咏嘆である。……こうした複雑で深遠な感情を、僅か十七文字で表現し得る文学は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜訳することも不可能だし、説明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に読み、日本語の発音で朗吟し、日本の伝統で味覚する外に仕方がないのだ。
「郷愁の詩人 与謝蕪村」萩原朔太郎(青空文庫)
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