佐渡が島(長塚節)のあらすじ・登場人物
雨の佐渡を歩く旅
- 文字数
- 15,448字
- 読了目安
- 約31分
- 表記
- 旧字旧仮名
- 種別
- 随筆
- 舞台
- 新潟県
この作品について
長塚節が1907年(明治40)に佐渡を旅した紀行文。雨の佐渡を小木の港へ向かう道すがらの風景を、写生文の細やかな筆で描く。「濱茄子の花」など、短い章に分かれ、旅人の目に映る海辺の村、竹の垣、岬の淡い影が、湿った空気とともに伝わる。
あらすじ
佐渡は今日で三日とも雨である。小木の港への街道は、真野の入江を右に見て、磯に沿って南へ走る。疎らな松林を出たり入ったりして、いくつもの漁村を過ぎ、しとしとと濡れて行く。入江は硝子板に息を吹きかけたようにぼんやり曇り、沖の暗礁に白い波が土手のように立つ。対岸の台が鼻の岬は霧のように淡い。小さな漁村では、汀に林のように竹が立てられ、枯れ色になっている。章ごとに旅の出来事が重ねられ、最後は寺泊の砂浜で、笠も荷物も投げ出し、草鞋の紐を徐ろに結ぶ場面で終わる。
冒頭部(原文より)
一 濱茄子の花 佐渡は今日で三日共雨である。小木の港への街道は眞野の入江を右に見て磯について南へ走る。疎らな松林を出たりはひつたりして幾つかの漁村を過ぎてしと/\ゝ沾れて行く。眞野の入江は硝子板に息を吹つ掛けた樣にぼんやりと曇つて居る。其平らな入江の沖には暗礁でもあるものと見えて土手のやうに眞白な波の立つて居る所がある。遠くのことであるから只眞白に見えて居る丈でちつとも動く樣には見えぬ。此入江を抱へた臺が鼻の岬が遙かに南へ突出して霧の如く淡く見えて居る。沖の白い波が遠ざかつてしまつて更に幾つかの村を過ぎると對岸の長い臺が鼻の岬もだん/\に後へ縮まつて外洋がぼんやりと表はれ出した。だら/\坂を上つたらすぐ足もとに小さな漁村があつた。汀には家をめぐつて林の如く竹が立てゝある。竹は枝も拂はずに立てゝあるのであるが悉く枯れて居るので葉は一葉もついて居らぬ樣である。此所は既に外洋を控へて居るので潮風を防ぐために此の如きものが一杯に立てられてあるものと見える。佐渡は到る所が物寂びて居るが此の漁村はまた格別である。秋といつてもまだ單衣で凌げるのに此濱は冬が來たかと思ふ程荒凉たるさまである。村へおりると穢い家ばかりで中に一軒夫婦で網糸のやうなものを縒つて居る所があつた。そこで土地の名を聞いたら亭主が皺嗄れた聲で西三河といふ所だといつた。ふと檐端を見ると板看板に五色軍談營業と書いてある。軍談師が内職に糸を縒つて居るので軍談師だから聲が變なのだと思つた。夫でも五色軍談が了解されぬので再び聞いて見ると三味線なしで語るのが只の軍談で三味線のはひるのが五色軍談だといつた。余は更にそれでは此の女房が三味線を彈くのだなと心の中に思つた。
「佐渡が島」長塚節(青空文庫)
末尾部(原文より)
佐渡を見ると悠然として海を掩うて長く横はつて居る。大きな馬盥に水を一杯に汲んで鍋葢を浮べれば鍋葢のとつ手を横から見たのが佐渡が島である。鍋の底から燃えあがつた焔のやうな夕燒の空が佐渡を包んで平穩な海一杯にきらめいて居る。佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた。三日は雨であとの一日丈が晴れたのであるが其雨の日に相川の金坑を見てこんなことがあつた。初めは工場の殺風景に驚いたのであつたが泥を溶いたやうに濁つた濁川といふ小さな溪流の岸に沿うて行くと高い支柱を建てゝ大きな箱戸樋が連つて居る。箱戸樋は溪流について屈折して走る。所々僅に紅した蔦の葉が支柱に絆んで戸樋を偃うて居る。疎らに立つた芒の穗が戸樋に屆かうとして傾いて居る。白い雨が蔦の葉をぬらして芒の穗に打ちつける。余は秋寂びた雨の中に立つて此の戸樋を流れるものは何であるかと思つた。戸樋は泥土の如く粉碎された鑛石が水と共に送られて居るのであつた。即ち金銀の水であるといふことが出來るのである。自分の頭の上を金銀の水が絶えず流れて居るのかと思ふと金山が急に美化されてしまつたやうに感ぜられた。佐渡は此の如くにして到る所余がために裝飾されて居るかとも思はれる。外見は凡そ佐渡ほど寂びた所は少なからう。然しながら仔細に味はうて見ると余はまだ佐渡ほど美しい分子を有して居る所に逢うたことがない。佐渡は博勞だけでも十分であるが只博勞だけでは鼠地の切れのやうな感じを免れぬ。佐渡が島では小木の港で美人に逢うた。美人は鼠地へ金糸銀糸で刺繍つた牡丹の花である。さうして博勞の娘はつやゝかな著莪の葉へ干した染糸で刺繍つた莟でなければならぬ。美人は夜ちらりと見て朝は別れてしまつたので何といふ名かそれも知らぬ。宿屋の娘であつたか女中であつたかそれもしかとの判斷は出來ぬ。余は何故匆卒に其宿を立つてしまつたのであつたかとそれも分らぬ。毎日々々不快な宿を遁げるやうに立ち去るのが旅中幾十日の習慣になつて居たからであつたらう。然し兎にも角にも昨日の浦を見おろしながら美人と噺をした。其噺は飽氣なかつた。惜しいはかないやうな思が心の底に潛んで居る。牡丹の花のうらを返して見ると金糸銀糸は亂れて居る。余が美人を憶ふ時には心に幾分の亂を生ずる。其心の亂れは刺繍の金糸銀糸が亂れて居る如く只美しくあるべき筈の亂れである。余はかういふ想に耽りつゝ船が磯へ掻きあげられるまで荷物と草鞋とを手に提げたまゝ呆然として立つて居た。水夫の濯いでくれた草鞋はすつかり乾いて居る。佐渡の形見として余の手に殘つたものは小木の宿屋の美人がともし灯のもとにゆかしがつた手帖の間の瑰の花と此の草鞋とのみである。草鞋も小木の美人が槌で叩いてくれた草鞋である。紺飛白の裾から白地の覗き出した美人の姿がすぐに眼前に浮ぶ。然しそれはもう過去の記憶である。現在のものは此の草鞋のみである。歩いて/\底が拔けて足のうらが痛くなつてならぬまでは此の草鞋は穿き通して見たいやうに思ふ。草鞋の底が拔ければ髮の毛の亂れのやうに藁が兩方へ喰ひ出す。それでもぎつしり結んだ紐は手で解かねばいつまでも足について決してとれるものではない。此草鞋の紐はどうしてもぎつしり結んで置かねばならぬ。余はかう思ひながら靜かに暮れ行く寺泊の磯の砂濱へ笠も蓙も荷物も投げ出して徐ろに草鞋の紐を結んだ。 (明治四十年十一月一日發行、ホトトギス 第十一卷第二號所載)
「佐渡が島」長塚節(青空文庫)
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