おごそかな渇き(山本周五郎)のあらすじ・登場人物
信仰と業を見すえた絶筆
- 文字数
- 36,054字
- 読了目安
- 約1時間12分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 福井県
この作品について
山本周五郎が1967年(昭和42年)、「朝日新聞」日曜版に連載したが、作者の急逝により未完に終わった絶筆。福井の山あいの村を舞台に、真宗と禅宗の家系が何百年も反目を続け、隠れキリシタンの噂までささやかれる、信仰と因習の根深い土地の人間模様を描く。宗教と人間の業を見すえた重厚な筆致に、大衆文学の巨匠が最後にたどりついた境地がしのばれる、惜しくも中断された作品である。
あらすじ
福井県大野郡山品村。日の出がおそく日没の早い、涸沢をはさんだ谷あいの貧しい村である。この土地では、永平寺を信仰する禅宗の島田家と、真言宗・一向宗を奉じる多くの家々とが、何百年もの間、根深い反目と敵意を引きずってきた。冠婚葬祭の往来さえ絶えて久しく、村長・島田家に男子が生まれた祝宴にも、同じ宗旨の十二、三人しか顔をそろえない。その席で、客の一人が「このうちは隠れキリシタンなんだ、永平寺は世間をごまかすためさ」とささやく——信仰が人々の暮らしと諍いの根に深く食い込んだ、山あいの村。物語は、そうした因習と信仰の土地に生きる人々の姿を、山本周五郎らしい重厚な筆致で描き出していく。だが連載半ばの1967年(昭和42年)2月、山本の急逝により、物語は未完のまま断ち切られた。老いた文豪が最後に挑んだ、信仰と人間の業をめぐる絶筆である。
冒頭部(原文より)
「あのおたねの岩屋の泉は」と村長の島田幾造がいった、「千年か、もっとまえかに、弘法大師が錫杖でもって岩を突いて、水よ湧けといったそうだ、三度も錫杖を突いていったそうだが、水は一滴も湧き出なかった、――そのころこの村は水不足で、両方の村と水争いの絶え間がなかったそうだ、死人もずいぶん出たらしい、そこへ道元禅師が来て、数珠をひと揉みしたら、それだけで水が噴きだしたということだ」
「おごそかな渇き」山本周五郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
隆二は枯れた木や枝を集めて来、焚火にくべながら――まだ川にはこれほど魚がいるんだ、自然はまだ生きている。 彼は深い感動にうたれ、殆んど涙ぐましくさえなった。 (絶筆・未完)
「おごそかな渇き」山本周五郎(青空文庫)
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