歌の円寂する時(折口信夫)のあらすじ・登場人物
短歌は終わるのか
- 文字数
- 13,606字
- 読了目安
- 約27分
- 表記
- 新字新仮名
- 舞台
- 長野県
この作品について
折口信夫が、畏友島木赤彦の死に際して、近代短歌の行く末を論じた文章。万葉復興の時代が終わりに近づき、短歌が新しい形を求められる時期にあるとして、歌の「円寂」(死)の可能性を考える。釈迢空の名で歌人として生きた折口の危機感が表れる。
あらすじ
「われさへや竟に来ざらむ。とし月のいやさかりゆく おくつきどころ」という歌が掲げられ、「ことしは寂しい春であった」と語り始める。目のせいか桜は殊に潤んで見え、出遅れた若葉は長く枯れ色をしていた。畏友島木赤彦を、湖を臨む山墓に葬ったのは、そうした木々に掩われた山際の空の澄んだ日であった。筆者は諏訪の下の道すがら、ふさぎの虫がかかってくるのを却けかねていた。華やかだった万葉復興の時勢が向きを変える一段落だと論じ、歌の新しい生活の伴奏者を失う前に、味わい尽くしたいと結ぶ。
冒頭部(原文より)
われさへや 竟に来ざらむ。とし月のいやさかりゆく おくつきどころ ことしは寂しい春であった。目のせいか、桜の花が殊に潤んで見えた。ひき続いては出遅れた若葉が長い事かじけ色をしていた。畏友島木赤彦を、湖に臨む山墓に葬ったのは、そうした木々に掩われた山際の空の、あかるく澄んだ日である。私は、それから「下の諏訪」へ下る途すがら、ふさぎの虫のかかって来るのを、却けかねて居た。一段落だ。はなやかであった万葉復興の時勢が、ここに来て向きを換えるのではないか。赤彦の死は、次の気運の促しになるのではあるまいか。いや寧、それの暗示の、寂かな姿を示したものと見るべきなのだろう。
「歌の円寂する時」折口信夫(青空文庫)
末尾部(原文より)
石原純は、更に開放的に、一行の語数の極めて不同な句の、四句・五句、時としては六句に及ぶ詩に於て、短歌の次の形を発生させようと試みて居る。私はその点に於て、臆病でもあり、古典に準拠もしている。さて、純ならびに私の作について感じ得たことは、口語律が、真の生きた命のままに用いられる喜びである。其から更に、近代生活をも、論理をも、叙事味の勝った気分に乗せて出すことが出来ることなのである。三十一字形の短歌は、おおよそは円寂の時に達している。祖先以来の久しい生活の伴奏者を失う前に、我々は出来るだけ味い尽して置きたい。或は残るかも知れないと思われるのは、芸術的の生命を失うた、旧派の短歌であろう。私どもにとっては、忌むべき寂しい議論であったけれども、何としよう。是非がない。
「歌の円寂する時」折口信夫(青空文庫)
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