再び歌よみに与ふる書(正岡子規)のあらすじ・登場人物
古今集を斬る子規の和歌革新論
- 文字数
- 1,709字
- 読了目安
- 約3分
- 表記
- 新字旧仮名
この作品について
正岡子規が新聞「日本」に連載した和歌革新論『歌よみに与ふる書』の第二信。紀貫之は下手な歌人で『古今集』はくだらない集だと断じ、自分もかつては古今集崇拝者だったと明かしたうえで、その理由を述べる。歌壇に衝撃を与えた論争的な書簡体の評論の、続きを知る入口となる。
あらすじ
書簡の形で、貫之は下手な歌よみで古今集はくだらぬ集だという大胆な断言から始まる。子規はその崇拝を軽く見る世人に対し、自分も数年前までは古今集崇拝の一人だったと告白し、崇拝している間は歌は優美なものだと思っていたが、「三年の恋一朝にさめて」みれば意気地のない女にばかされていたようだと語る。例として古今集の巻頭の歌を取り上げ、洒落にもならないつまらぬ歌と評する。強いて褒めるなら万葉以外に一風を成した点で、始めての者には珍しく覚えるという程度だとし、これを真似るだけを芸とする後世の歌人を批判する。結びでは、古今上下東西の文学を比べて見るよう勧め、くだらぬ歌書ばかり見ていては自分の迷いを醒ましがたいと諭す。
冒頭部(原文より)
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものゝ実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候。崇拝して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも三年の恋一朝にさめて見ればあんな意気地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。此外の歌とても大同小異にて佗洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。それでも強ひて古今集をほめて言はゞつまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取餌にて如何なる者にても始めての者は珍らしく覚え申候。只之を真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事なら兎も角も二百年たつても三百年たつても其糟粕を嘗めて居る不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
「再び歌よみに与ふる書」正岡子規(青空文庫)
末尾部(原文より)
香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候。俗な歌の多き事も無論に候。併し景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ只景樹時代には貫之時代よりも進歩して居る点があるといふ事は相違無ければ従て景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は俳人でいふと蓼太に比するが適当と被思候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男で其句に両極端が現れ居候。且満身の覇気でもつて世人を籠絡し全国に夥しき門派の末流をもつて居た処なども善く似て居るかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚だしき邪路に陥り可申今の景樹派などゝ申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちゞれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて束髪にいふ人はわざ/\毛をちゞらしたらんが如き趣有之候。こゝの処よくよく闊眼を開いて御判別可有候。古今上下東西の文学など能く比較して御覧可被成くだらぬ歌書許り見て居つては容易に自己の謎を醒まし難く見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。不尽。
「再び歌よみに与ふる書」正岡子規(青空文庫)
名文
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。
正岡子規『再び歌よみに与ふる書』(1898年)の書き出し。千年近く和歌の手本とされてきた紀貫之と『古今集』を、一文で切り捨てる。この挑発的な一行から、写生を軸にした短歌革新の論争が始まった。
原文を読む
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