正岡子規の生涯と代表作
柿食えば新時代
- 生没
- 1867–1902
- 出身
- 愛媛県
- 文学史
- 写生派
- Wikipedia
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略歴
1867年(慶応3年)、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)の松山藩士の家に生まれる。本名常規。5歳で父を失い、祖父の私塾で漢学に親しんだ。上京して東京帝国大学予備門に学び、同窓の夏目漱石と生涯の友情を結んだ。1892年(明治25年)、新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、同年に日本新聞社へ入社。月並み調の旧派俳句を批判、写生を旨とする俳句革新運動を起こした。短歌でも「歌よみに与ふる書」で古今集を退け万葉集を称揚し、根岸短歌会を率いて近代短歌の基礎を築いた。1889年に喀血し、血を吐くとされるほととぎすにちなむ「子規」を号とした。1895年には日清戦争の従軍記者となったが、帰国の途中に再び喀血し、翌年には脊椎カリエスを発症した。以後ほぼ寝たきりの闘病生活を送りながらも旺盛な執筆を続け、随筆「病牀六尺」を絶筆に、1902年(明治35年)9月19日、34歳で死去した。高浜虚子・伊藤左千夫・長塚節らを育て、その写生の考え方は俳句・短歌に加え、漱石らの散文にも及んだ。
収録作品
- 死後
- 小園の記
- 俳諧大要 1895年(明治28年)10月
- ベースボール 1896年(明治29年)7月
- 俳人蕪村 1897年(明治30年)4月
- 歌よみに与ふる書 1898年(明治31年)2月
- 再び歌よみに与ふる書 1898年(明治31年)2月
- 古池の句の弁 1898年(明治31年)10月
- 四百年後の東京 1899年(明治32年)1月
- 曙覧の歌 1899年(明治32年)3月
- 墓 1899年(明治32年)9月
- 飯待つ間 1899年(明治32年)10月
- 墨汁一滴 1901年(明治34年)1月
- くだもの 1901年(明治34年)3月
- 病牀苦語 1902年(明治35年)4月
- 病牀六尺 1902年(明治35年)5月
- 九月十四日の朝 1902年(明治35年)9月