高瀬舟縁起(森鴎外)のあらすじ・登場人物
高瀬舟に潜む二つの問題
- 文字数
- 1,329字
- 読了目安
- 約3分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
1916年(大正5年)1月の「心の花」に載った、短編『高瀬舟』の成立について作者自身が記した文章。京都の高瀬川と高瀬舟についての考証から始め、徳川時代の随筆『翁草』に出る罪人の話を紹介し、そこに「財産というものの観念」と「ユウタナジイ(安楽死)」という二つの問題を見いだしたと述べる。『高瀬舟』を読むときの手がかりとして、本編とあわせて読まれることが多い。
あらすじ
鴎外は、京都の高瀬川は角倉了以が掘ったもので、そこを通う高瀬舟は曳舟であることなどを、『和名鈔』や『和漢船用集』を引いて確かめる。徳川時代には、京都の罪人が遠島を言い渡されると高瀬舟で大阪へ回され、護送する同心は悲しい話ばかり聞かされたという。あるとき、兄弟殺しの罪を犯した男が少しも悲しがっていなかった。その子細を尋ねると、これまで食を得るのに困っていたが、遠島の際に二百文をもらい、銭を持つのは初めてだと答えた。また、殺した理由を問うと、病気で死にきれずにいた弟に頼まれて殺したのだと答えた。この話は『翁草』に出ており、鴎外はそこに二つの大きな問題があると考える。一つは財産の観念で、二百文を財産として喜ぶ姿がおもしろい。もう一つは、死にかかって苦しんでいる人を楽に死なせてやることで、これをユウタナジイという。こう思って「高瀬舟」を書き、中央公論に発表したと述べる。
冒頭部(原文より)
京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟である。元来たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と言うのだから、同名の川は諸国にある。しかし舟は曳舟には限らぬので、『和名鈔』には釈名の「艇小而深者曰」とあるの字をたかせに当ててある。竹柏園文庫の『和漢船用集』を借覧するに、「おもて高く、とも、よこともにて、低く平らなるものなり」と言ってある。そして図にはで行る舟がかいてある。
「高瀬舟縁起」森鴎外(青空文庫)
末尾部(原文より)
それを救う手段は全くない。そばからその苦しむのを見ている人はどう思うであろうか。たとい教えのある人でも、どうせ死ななくてはならぬものなら、あの苦しみを長くさせておかずに、早く死なせてやりたいという情は必ず起こる。ここに麻酔薬を与えてよいか悪いかという疑いが生ずるのである。その薬は致死量でないにしても、薬を与えれば、多少死期を早くするかもしれない。それゆえやらずにおいて苦しませていなくてはならない。従来の道徳は苦しませておけと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある。すなわち死に瀕して苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイという。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。私にはそれがひどくおもしろい。 こう思って私は「高瀬舟」という話を書いた。『中央公論』で公にしたのがそれである。
「高瀬舟縁起」森鴎外(青空文庫)
名文
私はこれを読んで、その中に二つの大きい問題が含まれていると思った。一つは財産というものの観念である。
『高瀬舟』の素材となった『翁草』の話について、鴎外が着眼点を語った一節。財産の観念と安楽死という二つの問題がこの作品の核になる。
これをユウタナジイという。らくに死なせるという意味である。
死に瀕して苦しむ者を楽に死なせることの是非を論じた一節。『高瀬舟』のもう一つの主題を、医師でもあった鴎外が自ら解説している。
原文を読む
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