ポーの名文
ポーの作品から、よく知られた一節を集めました。
12件
黒猫
してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。
語り手が自らの破滅の原因として「天邪鬼」の心を論じる一節。してはいけないからこそしてしまうという人間の衝動を言い当て、ポーの心理的恐怖の核心を示す。
アッシャー家の崩壊
雲が重苦しく空に低くかかった、もの憂い、暗い、寂寞とした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にもの淋しい地方を通りすぎて行った。そして黄昏の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。
物語の書き出し。重く垂れこめた雲、もの憂い秋の一日、もの淋しい土地と、陰鬱な形容を重ねて、崩壊へ向かう物語の空気を冒頭から決定づける。
モルグ街の殺人事件
分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。
ポー『モルグ街の殺人事件』の書き出し。「分析」の才能を論じる前置きから、探偵デュパンの推理譚が始まる、推理小説の原点となる一節。
黄金虫
そう思うんじゃごぜえません、――そうと知ってるんでがす。あの黄金虫に咬まれたんでなけりゃあ、どうしてあんなにしょっちゅう黄金の夢をみてるもんかね?
ルグランの召使いジュピターが、主人の様子を心配して語る言葉。方言まじりの訳で、題名の「黄金虫」が物語に影を落とし始める。
人間の知恵を適切に働かしても解けないような謎を、人間の知恵が組み立てることができるかどうかということは、大いに疑わしいな。
暗号の解き方を語るルグランの言葉。暗号ものの源流とされる本作で、ポーの理知への信頼をよく示す一文として知られる。
早すぎる埋葬
実際、真の悲惨――どたんばの苦悩――は個人的のものであり、一般的のものではない。
ポー『早すぎる埋葬』の序盤、歴史上の大惨事にふれたあとの一文。恐怖の本質は一人の人間の苦しみにあるという、本作の出発点を示す。
生と死とを分つ境界はどう見ても影のような漠然としたものである。どこで生が終りどこで死が始まるのか、ということは誰が言えよう?
生きながら葬られる恐怖を論じる一節。生と死の境のあいまいさを問いかける、ポーの恐怖小説の中心にある考えが表れている。
メールストロムの旋渦
たった一日もたたないうちに、真っ黒だった髪の毛がこんなに白くなり、手足の力もなくなって、神経が弱ってしまいました。
ノルウェーの漁師が、大渦巻に呑まれた体験を語り始める場面。わずか一日で人を老いさせた恐怖が、これから語られることを予告する。
空威張りするように見えるかもしれません――が、まったくほんとうの話なんです、――私は、こうして死ぬのはなんというすばらしいことだろう、そして、神さまの御力のこんな驚くべき示顕のことを思うと、自分一個の生命などという取るにも足らぬことを考えるのはなんというばかげたことだろう、と考えはじめました。
渦に呑まれかけた漁師が、恐怖の果てに落ち着きを取りもどす場面。自然の壮大さへの畏れが、恐怖を超えた感嘆に変わる。
自分のまわりを眺めたときのあの、畏懼と、恐怖と、嘆美との感じを、私は決して忘れることはありますまい。
巨大な渦の漏斗の内側に船が張りつき、月光に照らされた光景を見た瞬間の回想。恐ろしさと美しさが一つになる、本作の頂点。
落穴と振子
私は弱っていた、――あの長いあいだの苦痛のために、死にそうなくらいひどく弱っていた。
ポー『落穴と振子』の書き出し。宗教裁判で死刑を宣告された「私」の朦朧とした意識から、閉ざされた牢獄の恐怖が語られていく。
下へ――じりじり下へ、振子は這い降りてくる。私はその振子の横に揺れる速度と、下へ降りてくる速度とを照らしあわせて、狂気じみた快感を感じた。右へ――左へ――遠く広く――悪鬼の叫びをあげて! 私の心臓めがけて、虎のような忍び足で下へ!
縛られた「私」の上に、刃のついた振子が少しずつ降りてくる場面。ダッシュと反復で迫る緊迫した文体が、本作の山場をつくる。