メールストロムの旋渦(ポー)のあらすじ・登場人物
大渦巻に呑まれた漁師
- 冒険
- 怪奇
- 翻訳
- 文字数
- 19,094字
- 読了目安
- 約38分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
エドガー・アラン・ポーが1841年に雑誌『グレアムズ・マガジン』に発表した短編「A Descent into the Maelström」を、佐々木直次郎が訳したもの(第一書房『エドガア・アラン・ポオ小説全集』第1巻、1931年)。ノルウェー北部ロフォーデン地方の断崖の上で、一日で髪が真っ白になったという漁師の老人が、眼下に現れる大渦巻モスケー・ストロムで自分が遭った出来事を旅人に語る。渦の深さや成因をめぐる地誌や百科事典の記述を引用して検討する細部と、嵐の海で恐怖がやがて好奇心へ変わっていく心の動きをたどる語りが組み合わされた、ポーの海洋冒険ものの代表作である。
あらすじ
ノルウェー北部ロフォーデン地方のヘルゼッゲンの断崖の頂で、案内役の老人が「私」に語りかける。老人は三年前、どんな人間も遭ったことのない恐ろしい目に遭い、一日のうちに黒かった髪が真っ白になり、体も心もすっかり衰えてしまったのだという。見下ろす海では、潮の変わり目とともに流れが狂い立ち、やがて直径一マイルを超える巨大な渦巻、モスケー・ストロム(メールストロム)が姿を現す。老人は、二人の兄弟と三人で漁船を持ち、渦の向こうのよい漁場へ、潮の止まるわずか十五分の間を見計らって通っていたと話しはじめる。ある年の七月、漁を終えて帰路についた三人の船は、突然の台風に襲われる。弟は帆柱ごと海にさらわれ、兄と老人だけが船にしがみつくが、時計が止まっていたために潮止まりの時刻に遅れ、船は荒れ狂う渦へと押し流されていく。渦の縁に入ると、老人はかえって落ち着きを取り戻し、渦の底を見てみたいという好奇心さえ覚える。月光に照らされた漏斗の内壁を回りながら、彼は渦に呑まれた漂流物の沈み方を観察し、大きいものや球形のものほど早く沈み、円筒形のものは沈みにくいことに気づく。老人は空の水樽に体を縛りつけて海へ飛びこもうと兄に合図するが、恐怖のあまり正気を失った兄は環付螺釘から離れようとしない。老人がひとり樽とともに飛びこむと、やがて船は兄を乗せたまま渦の底へ落ちていった。まもなく潮が変わって渦はおさまり、老人は海面に浮かび上がって漁師仲間の船に救われる。だが救った者たちは、髪が白くなり顔つきまで変わった彼を誰とも見分けられず、この話を信じる者もいなかったと、老人は語り終える。
登場人物
- 私 ノルウェーの断崖の上で話を聞く旅人
- 老人 大渦巻モスケー・ストロムで遭難し、一日で髪が白くなったと語る漁師
- 兄 老人とともに漁船で漁をしていた兄
- 弟 嵐の最初の一吹きで帆柱ごと海にさらわれた末の兄弟
冒頭部(原文より)
私たちはそのとき峨々としてそびえ立つ岩の頂上にたどりついた。四、五分のあいだ老人はへとへとに疲れきって口もきけないようであった。 「まだそんなに古いことではありません」と、彼はとうとう話しだした。「そのころでしたら、末の息子と同じくらいにらくらくと、この道をご案内できたのですがね。それが三年ほど前に私は、どんな人間も遭ったことのないような――たとえ遭ったにしても、生き残ってそれを話すことなんぞはとてもできないような――恐ろしい目に遭って、そのときの六時間の死ぬような恐ろしさのために、体も心もすっかり参ってしまったものでしてね。あなたは私をずいぶん老人だと思っていらっしゃる――が、ほんとうはそうじゃないのですよ。たった一日もたたないうちに、真っ黒だった髪の毛がこんなに白くなり、手足の力もなくなって、神経が弱ってしまいました。だからいまでは、ほんのちょいとした仕事にも体がぶるぶる震え、ものの影にもおびえるような有様です。こんな小さい崖から見下ろしても眩暈がするんですからね」
「メールストロムの旋渦」ポー(青空文庫)
末尾部(原文より)
私はストロムの海峡のなかへ猛烈に巻きこまれ、海岸に沿うて数分のうちに漁師たちの『漁場』へ押し流されました。そこで一艘の船が私を拾いあげてくれました、――疲労のためにぐったりと弱りはてている、そして(もう危険がなくなったとなると)その恐ろしさの思い出のために口もきけなくなっている私を。船にひきあげてくれた人たちは、古くからの仲間や、毎日顔を合わせている連中でした、――が、ちょうどあの世からやってきた人間のように誰ひとり私を見分けることができませんでした。その前の日までは鴉のように真っ黒だった髪の毛は、ご覧のとおりに白くなっていました。みんなは私の顔つきまですっかり変ってしまったといいます。私はみんなにこの話をしました、――が誰もほんとうにしませんでした。今それをあなたにお話ししたのですが、――人の言うことを茶化してしまうあのロフォーデンの漁師たち以上に、あなたがそれを信じてくださろうとは、どうも私にはあまり思えないんですがね」
「メールストロムの旋渦」ポー(青空文庫)
名文
たった一日もたたないうちに、真っ黒だった髪の毛がこんなに白くなり、手足の力もなくなって、神経が弱ってしまいました。
ノルウェーの漁師が、大渦巻に呑まれた体験を語り始める場面。わずか一日で人を老いさせた恐怖が、これから語られることを予告する。
空威張りするように見えるかもしれません――が、まったくほんとうの話なんです、――私は、こうして死ぬのはなんというすばらしいことだろう、そして、神さまの御力のこんな驚くべき示顕のことを思うと、自分一個の生命などという取るにも足らぬことを考えるのはなんというばかげたことだろう、と考えはじめました。
渦に呑まれかけた漁師が、恐怖の果てに落ち着きを取りもどす場面。自然の壮大さへの畏れが、恐怖を超えた感嘆に変わる。
自分のまわりを眺めたときのあの、畏懼と、恐怖と、嘆美との感じを、私は決して忘れることはありますまい。
巨大な渦の漏斗の内側に船が張りつき、月光に照らされた光景を見た瞬間の回想。恐ろしさと美しさが一つになる、本作の頂点。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。