はつ恋(ツルゲーネフ)のあらすじ・登場人物
十六歳の夏、隣の令嬢に恋をした
- 恋愛
- 青春
- 翻訳
- 文字数
- 74,493字
- 読了目安
- 約2時間29分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
ロシアの作家ツルゲーネフが1860年に発表した中編『初恋』を、チェーホフやプーシキンの翻訳で名高い神西清が日本語に移した一編。夜更けの集まりで「めいめいの初恋を話そう」と持ちかけられた四十がらみの男が、十六歳の夏の思い出を手記にして読み聞かせるという枠の中で物語は進む。隣の別荘に越してきた年上の公爵令嬢への、陶酔と嫉妬にゆれる少年の恋は、やがて思いもよらない相手との三角関係に突き当たる。作者自身の少年時代の体験が下敷きといわれ、恋の甘さと残酷さを描いた青春小説の古典として、日本でも長く読み継がれてきた。
あらすじ
一八三三年の夏、大学の入学準備をしながらモスクワ郊外の別荘で気ままに暮らしていた十六歳のヴラジーミルは、隣の傍屋に越してきた落ちぶれた公爵夫人ザセーキナの娘、二十一歳のジナイーダにひと目で心を奪われる。彼女のまわりには軽騎兵のベロヴゾーロフ、医者のルーシン、詩人のマイダーノフ、マレーフスキイ伯爵らが集まり、ジナイーダは罰金遊びや気まぐれな言いつけで男たちを思うままに振り回していた。少年もその取り巻きに加わり、優しくされては有頂天になり、冷たくされては沈みこむ。高い塀の上から「わたしを愛しているなら飛び降りてごらん」と言われて、ためらわず身を躍らせたこともあった。ところがある時から、ジナイーダは急にふさぎこむようになる。彼女が誰かを本気で愛していると悟った少年は、嫉妬に駆られて夜の庭で恋敵を待ち伏せる。だが黒いマントに身を包んで彼女の窓へ忍んでいったのは、母より十も若い美男の、自分の父だった。やがて匿名の手紙で事が露見し、一家はモスクワの町へ引き揚げる。後日、父と馬で出かけた先で、少年は窓越しに父がジナイーダの腕を鞭で打ち、彼女がその赤い痕に口づけるのを見てしまう。半年後に父はペテルブルグで急死し、四年後、人妻となったジナイーダを訪ねようとした彼は、彼女が数日前にお産で亡くなったと知らされる。
登場人物
- ヴラジーミル 語り手。十六歳の夏に初めての恋を知る
- ジナイーダ 隣に越してきた公爵令嬢、二十一歳。取り巻きの男たちを翻弄する
- 父 ヴラジーミルの父ピョートル・ヴァシーリエヴィチ。若く美男で、冷ややかな人
- ザセーキナ公爵夫人 ジナイーダの母。落ちぶれて品がない
- ルーシン 取り巻きの一人の医者。皮肉屋で少年に忠告する
- マイダーノフ 取り巻きの一人の詩人
冒頭部(原文より)
P・V・アンネンコフに捧げる 客はもうとうに散ってしまった。時計が零時半を打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。 主人は呼鈴を鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。 「じゃ、そう決りましたね」と主人は、一層ふかぶかと肘掛椅子に身を沈めて、葉巻に火をつけながら言った。――「めいめい、自分の初恋の話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ」
「はつ恋」ツルゲーネフ(青空文庫)
末尾部(原文より)
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの束の間たち現われたわたしの初恋のまぼろしを、溜息の一吐き、うら悲しい感触の一息吹きをもって、見送るか見送らないかのあの頃は、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう! しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影がすでに射し始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨の思い出ほどに、すがすがしくも懐しいものが、ほかに何か残っているだろうか? だがわたしは、いささか自分につらく当り過ぎているようだ。その頃――つまりあの無分別な青春の頃にも、わたしはあながち、わたしに呼びかける悲しげな声や、墓穴の中からつたわってくる荘厳な物音に、耳をふさいでいたわけではない。忘れもしないが、ジナイーダの死を知った日から四、五日して、わたしは自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老婆の、臨終に立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、袋を枕代りにした老婆は、苦しみもがきながら息を引取った。彼女の一生は、その日その日の乏しい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福の甘い味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、――そのもたらす自由を、そのもたらす憩いをこそ、喜び迎えるべきではなかったか? ところが、彼女の老いさらばえた肉体がまだ保っているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力が抜けきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、「主よ、わが罪を許させたまえ」とささやき続けるのであった。――そして、これを名残りの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期の恐れやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆のいまわの床に付き添いながら、わたしは思わずジナイーダの身になって、そら恐ろしくなってきた。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみ祈りたくなったのである。
「はつ恋」ツルゲーネフ(青空文庫)
名文
その頃わたしは十六歳だった。一八三三年の夏のことである。
中年の語り手が少年時代の初恋を語り起こす冒頭。モスクワ郊外の別荘で過ごした夏の思い出が、ここから静かに開かれる。
ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。悲哀でさえ、お前には似つかわしい。
終盤、語り手が過ぎ去った若き日を振り返る詠嘆。ツルゲーネフらしい抒情で、青春のおごりと輝きをともに惜しむ。
『わが息子よ』と、父は書いていた。――『女の愛を恐れよ。かの幸を、かの毒を恐れよ』……
亡くなる日の朝、父が「わたし」に宛てて書きかけた手紙。息子と同じ女性を愛した父の言葉が、初恋の苦さを締めくくる。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。
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