即興詩人(アンデルセン)のあらすじ・登場人物
鴎外が九年をかけた名訳
- 青春
- 恋愛
- 翻訳
- 文字数
- 261,093字
- 読了目安
- 約8時間42分
- 表記
- 旧字旧仮名
- 種別
- 小説
この作品について
森鴎外がアンデルセンの自伝的長編(1834年)を訳した、明治の翻訳文学を代表する一作。明治25年から34年まで九年をかけ、軍務の合間の夜と休日に少しずつ訳し継いだ。雅文脈に漢語を織り込んだ絢爛たる文語体は「原作を超えた」とまで評され、原作より訳文のほうが名高いという稀な例となった。ローマに生まれた貧しい少年が即興詩人として世に出るまでを、イタリアの風光とともに描く。ここに写された南欧への憧れは、上田敏・永井荷風・木下杢太郎ら後続の作家たちを長く魅了しつづけた。
あらすじ
ローマのピアツツア・バルベリイニに面した家に生まれたアントニオは、貧しい未亡人の母のもとで育つ。人の意を迎えては自ら喜ぶ性——のちに彼の生涯につきまとうその芽は、幼い日の記憶のなかにすでに見えていた。母を事故で失った少年は、通りがかりの貴族ボルゲエゼ家に拾われ、伯父の庇護のもとで教育を受ける。生来の即興詩の才は人々を驚かせるが、彼は同時に、施しを受ける者としての引け目と、貴族社会の窮屈さのあいだで身を細らせてゆく。少年時代の友ベルナルドオとは、やがて一人の女をめぐって決定的に道を分かつことになる。アントニオの前には幾人もの女性が現れる。歌姫アヌンチヤタは彼の心を奪うが、その恋は友との争いに引き裂かれ、ローマを追われる原因ともなる。盲目の少女ララ、ヹネチアの舞姫、貴族の令嬢——南欧の陽光と祭礼、ナポリの喧噪、ヹスヸオ山の噴火、ポムペイの廃墟、ヹネチアの運河といった風景のなかを、彼は詩人としての名を得ながらも定めなくさすらう。名声を得ても心の渇きは癒えず、失われた恋の記憶が繰り返し立ち返ってくる。長い遍歴の果てにアントニオが辿りつくのは、カプリ島の青の洞窟(琅洞)である。かつて二人が訪れたその場所へ、彼はララとともに小舟で漕ぎ入る。海面すれすれの岩の裂け目をくぐると、日光は水底から差し込んで洞窟のすべてを碧色に染め、櫓が水を打つたびに飛沫が紅薔薇の花びらのように散った。ララは合掌して思いを凝らす。潮が満ちて洞窟の口をふさぐ前に舟は外へ出、前には渺茫たる大海が、後ろには石門の細りゆく姿が見えた——物語はこの光景をもって閉じられる。
登場人物
- アントニオ ローマの貧家に生まれた即興詩人。物語の語り手
- 母上 アントニオを育て、早くに世を去る
- ベルナルドオ 少年時代の友。のち一人の女をめぐって敵となる
- アヌンチヤタ アントニオが恋する歌姫
- ララ 盲目の少女。終幕で青の洞窟をともに訪れる
- フラア・マルチノ 母の懺悔を聞く僧
冒頭部(原文より)
わが最初の境界 羅馬に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの廣こうぢのさまをば銅板畫にて見つることあらむ。かゝる畫にはヰア、フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三條の樋の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。
「即興詩人」アンデルセン(青空文庫)
末尾部(原文より)
巖穴の一點の光明は忽ち失せて、第二の舟は窟内に入り來りぬ。そのさま水底より浮び出づるが如くなりき。第三、第四の舟は相繼いで至りぬ。凡そこゝに集へる人々は、その奉ずる所の教の新舊を問はず、一人として此自然の奇觀に逢ひて、天にいます神父の功徳を稱へざるものなし。 舟人は俄に潮滿ち來と叫びて、忙はしく艪を搖かし始めつ。そは滿潮の巖穴を塞ぐを恐れてなりき。遊人の舟は相銜みて洞窟より出で、我等は前に渺茫たる大海を望み、後に琅洞の石門の漸く細りゆくを見たり。
「即興詩人」アンデルセン(青空文庫)
名文
羅馬に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。
アンデルセン作・森鴎外訳『即興詩人』(1902年刊)の本編の書き出し。ローマのバルベリーニ広場の噴水から、主人公アントニオの生い立ちが語られる。原作をしのぐと評された鴎外の雅文体は、明治の青年たちをイタリアへ憧れさせた。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。