如何なる星の下に(高見順)のあらすじ・登場人物
浅草の踊り子への淡い恋
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 119,373字
- 読了目安
- 約3時間59分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
1939年(昭和14年)1月から翌年3月まで『文藝』に連載された高見順の長編。浅草の盛り場近くに仕事部屋を借りた小説家の「私」は、雑踏の刺激を仕事に役立てるつもりが、机の前で何もできずにいる。外へ出るのも家へ帰るのもためらう気持ちには、十七歳の踊り子・小柳雅子への、うまく名づけられない思いが絡んでいた。空を飛ぶ雁を眺めるところから始まる語りは、読者に弁解したり、自分の言い方を言い直したりしながら、心の動きを細かくたどる。舞台や楽屋に集う人々との会話も、その独白と交じり合い、賑やかな町にいながら満たされない感覚を伝える。作者は1938年春に浅草田島町へ仕事部屋を構えており、その暮らしが執筆の背景にある。雑誌連載には三雲祥之助の挿絵が付き、単行本にも引き継がれた。芸人たちの生きる町の風俗と、作家の頼りない内面とを重ねた作品である。
あらすじ
小説家の「私」は、放っておくとぼんやりしてしまう自分を雑踏の刺激で仕事へ追い立てようと、浅草の盛り場のアパートに六畳ひと間の仕事部屋を借りている。だが実際には机の前に坐り込んだきり原稿は一向に進まず、外へ出るのも家へ帰るのも億劫で、うすら寒い部屋で惨めな気持を持てあましている。彼が浅草を離れられずにいるのは、この街にレヴィウの踊り子・小柳雅子がいるからだった。まだ十七の、あどけない雅子への思いは、恋というにはとらえどころがなく、友人たちに「あんな子供」と笑われても、うまく言葉にできない。「私」は雅子の出るレヴィウに通い、楽屋を訪ね、踊り子や作者たちと親しく交わりながら、浅草に生きる人々の暮らしのなかへ分け入ってゆく。玉乗り一座の親子、盛り場の顔役、酒場の女たち――華やかな舞台の裏側にひしめく庶民の哀歓が、「私」のまなざしを通して次々と描き出される。物語らしい筋の起伏よりも、街とそこに息づく人間の空気そのものが主人公であり、盛り場のにぎわいのなかにただよう寂しさと、移ろってゆくものへの愛惜が全編を貫く。やがて時局は戦争へと傾き、応召や出征の影が街に忍び寄る。愛国行進曲のラッパが鳴りわたるなか、「私」は変わりゆく浅草を見つめながら、この奇妙で愛おしい街の物語を閉じてゆく。
冒頭部(原文より)
――アパートの三階の、私の佗しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗くどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな仕事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。空には何も見えないのであったが、眼もまた何も見ていないごとくであった。だが、するうち、異様なものが、まるでヘンなゴミみたいなものが、盛り場から休みなく立ち上る埃で曇っているように見える向うの空に飛んでいるのが眼にとまった。そのゴミは黴菌のようにごちゃごちゃと集団をなしていたが、見ているうちに細長く延びてへの字を描いた。 雁であった。
「如何なる星の下に」高見順(青空文庫)
末尾部(原文より)
そんなゴロちゃんを朝野は敷居に立ったまま苦り切った顔で見おろしていた。 折から愛国行進曲を奏するラッパの音が聞えてきた。あまり上手でない、それだけかえって厳粛感を与える、その聞きなれたラッパの音は、応召者を先頭に立てて町内の人たちが神社へ参拝に行く、その行列の姿を髣髴とさせるのである。例の玉乗りのおやじさんも、その行列に加わっていることだろう。 やがて私は、この奇妙な会の開始を告げるべく、ひょろひょろと立ち上った。
「如何なる星の下に」高見順(青空文庫)
名文
――アパートの三階の、私の佗しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗くどんよりと曇っていた。
高見順『如何なる星の下に』の本文の書き出し。浅草の盛り場を見おろす仕事部屋から、作家の「私」の憂鬱な日々が語りはじめられる。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。