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省察(デカルト)のあらすじ・登場人物

すべてを疑うことから始める

  • 翻訳

デカルト 訳者 三木清 

文字数
82,768字
読了目安
約2時間46分
表記
新字新仮名

この作品について

デカルトが1641年にパリでラテン語により刊行した『第一哲学についての省察』の、哲学者三木清による訳。正式な題のとおり、神が存在することと、人間の精神と身体とが区別されることを論証するのが目的である。「私」が一日ごとに思索を進める六つの省察から成り、感覚から数学の真理までを疑いにかける方法的懐疑に始まって、疑う私の存在の確かさ、神の存在証明、誤りの起源、物質的なものの本質と存在へと順に論を運ぶ。本文の前にはパリ神学部への献呈書簡、読者への序言、六省察の概要が置かれ、巻末には同じ論証を定義・公理・定理の形に並べ直した一篇が付く。三木の没後、1948年刊の創元社『デカルト選集』第2巻に収められ、翌年岩波文庫に入った。

あらすじ

本文の前に、パリ大学神学部の学者たちへ宛てた献呈の書簡、読者への序言、六つの省察の概要が置かれる。省察一では、若い頃から真と信じてきた意見の多くが疑わしいことに気づいた「私」が、一生に一度すべてを根柢から覆そうと決め、感覚の欺き、夢と覚醒との区別のつかなさ、さらには私を欺く何者かの想定によって、数学の真理までも疑いにかける。省察二では、どれほど欺かれていても、疑い考えている私が存在することだけは確かだと見いだし、私とは思惟するものであると定め、火に近づけると姿を変える蜜蝋の例を通して、物体よりも精神の方が容易に知られることを示す。省察三では、私のうちにある無限で完全な神の観念は有限な私からは生じ得ないとして、神の存在を証明する。省察四では、欺くことのない神のもとでなぜ誤謬が生じるのかを問い、意志が悟性よりも広い範囲に及び、明晰に知られていないことにまで判断を下すところに原因を求める。省察五では、物質的なものの本質を数学が扱う延長のうちに見いだし、三角形の本質から性質が導かれるように、最高に完全な存在者の観念には存在が含まれるとして、改めて神の存在を論じる。省察六では、想像力と感覚の働きから物体が存在することを結論し、精神と身体とが実在的に区別されること、しかも両者が密接に結びついていることを論じる。そのうえで、足の痛みが脳の運動によって生じるといった仕組みから感覚の誤りの由来を説明し、記憶と悟性で確かめられるものは疑うに及ばないとして、夢をめぐる誇張的な懐疑を退ける。巻末には、定義・要請・公理・定理と証明の形に並べ直した、神の存在と精神・身体の区別の論証が付されている。

冒頭部(原文より)

省察一 疑いをいれ得るものについて。  すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根柢から覆えし、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。しかしこれはたいへんな仕事であると思われたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適当ないかなる時も後に来ないという年齢に達するまで待った。かようなわけで長い間延ばしてきたので、いまやもし私が実行するために残っている時間をなおも思案に空費するならば、私は過ちを犯すことになるであろう。そこで、幸に今日、私の心は一切の憂いから放たれ、独り離れて、平穏な閑暇を得たから、いよいよ私は本気にかつ自由に私のもろもろの意見のこの全般的顛覆に従事しよう。

「省察」デカルト(青空文庫)

末尾部(原文より)

 これはとりわけ私が覚醒から区別しなかったところの夢についての極めて一般的な懐疑がそうである。というのは、私は今、両者の間には、夢に現われるものは決して、醒めているときに起るもののように、生涯の余のすべての活動と記憶によって結び附けられないという点において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら実に、もし何者かが、私の醒めているときに、夢において起るごとく突然に私に現われ、そしてすぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者がどこから来たのかもどこへ去ったのかもわからなかったならば、私がこの者を真実の人間であると判断するよりもむしろ幽霊、または私の脳裡で作られた幻想であると判断するのは、不当ではないであろうから。しかしながら、それがどこから来たか、どこにあるかという場所、またそれがいつ私にやってきたかという時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覚を何らの中断もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めているときに起っていることは、私にまったく確実である。またかかるものの真理について私は、もし、それを検査するためにすべての感覚、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいずれによってもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、わずかなりとも疑うことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないということから、かかるものにおいて私は過たないということが一般に帰結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかように厳密な検査の余裕を与えないゆえに、人間の生活は特殊的なものに関してしばしば誤謬に陥り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。

「省察」デカルト(青空文庫)

名文

すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根柢から覆えし、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。

第一省察の書き出し。一生に一度はすべてを根底から覆して土台からやり直す、という方法的懐疑の出発点を宣言する。三木清訳。

アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の点のほか何も求めなかった。もし私が極めてわずかなものであれ何か確実で揺がし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。

第二省察の冒頭近く。懐疑の深淵にあって、アルキメデスの支点にならい、ただひとつ確実なものを探し求める決意を語る。

かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

第二省察の核心。欺く者がいても、疑う私は存在するという確信に至る一節で、「我思う、ゆえに我あり」として知られる考えの『省察』での表現。

原文を読む

原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。

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