早稲田文学とは
- 分類
- 結社・団体
- 読み
- わせだぶんがく
明治24年(1891年)10月、坪内逍遥が東京専門学校(現・早稲田大学)文学科を基盤に創刊した文芸雑誌。当初は講義録に近い体裁だったが、明治26年(1893年)9月の誌面刷新で純然たる文芸誌となり、逍遥の評論を柱として、写実主義の理論的な拠点として機能した。逍遥が創刊号から連載したシェークスピア劇の評釈を発端に、森鴎外の「しがらみ草紙」との間で芸術における理想の有無をめぐる「没理想論争」が戦わされたのも、この第一次(明治31年〈1898年〉まで)のことである。明治39年(1906年)からの第二次では、留学から帰った島村抱月が中心となり、評論や作品紹介を通じて自然主義文学運動を主導する発表誌として文壇に大きな力をもった。抱月が訳したイプセン『人形の家』(明治43年)や、葛西善蔵の『子をつれて』(大正7年)もこの誌上に載っている。第二次は昭和2年(1927年)に休刊し、昭和9年(1934年)には谷崎精二らによる第三次が始まった。以後も幾度もの休刊と復刊を重ねながら長い歴史を刻んでおり、慶應義塾を拠点とする「三田文学」と並ぶ、大学系文芸誌の草分けである。