油地獄(斎藤緑雨)のあらすじ・登場人物
書生が出会う、酒席のことば
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 33,600字
- 読了目安
- 約1時間7分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
1891年(明治24年)の『国会新聞』に発表された斎藤緑雨の小説。信濃から上京して法学を学ぶ二十一歳の目賀田貞之進は、裕福な家の一人息子で、下宿先では早起きで温和な青年と見られている。口数が少なく、親しい友もいない彼が、在京長野県人の懇親会に出席し、芸者の小歌と出会う。酒席のどこに座るか、誰に声をかけるか、盃をどう返すかといった小さなことが、本人には大きな難題になる。そのためらいを追う地の文には、気遣いを見せながらも人物をからかうような語り手の声がある。漢語や古い言い回しに日常の動作をつなぎ、盛大な交際の場と、一人で落ち着かない青年との距離を描く。芸者の服装や宴会の余興も具体的で、明治の学生生活と社交の場とが接する様子を伝える。人物の言葉と、それを受け取る側の内心のずれを細かく描いた恋愛小説である。
あらすじ
目賀田貞之進は、勤勉で品行方正と評判の法律書生である。ある懇親の席で柳橋の芸者・小歌と出会い、その思わせぶりな一言にすっかり心を奪われてしまう。以来、貞之進は小歌の言葉の裏をあれこれと読んでは、自分に気があるのだと一方的に思い込み、妄想をとめどなく膨らませていく。だが海千山千の花柳界に生きる小歌にとって、うぶな書生の純情など手玉に取る相手にすぎなかった。募る一方の片恋にのめり込んだ貞之進は、学業も身も持ち崩し、金と色恋に振り回されて次第に落ちぶれていく。裏切られた思いと嫉妬に追い詰められ、ついに彼は正気を失う。行き場のない恨みを抱えたまま、鉄鍋に油を煮え立たせ、そこへ小歌の写真を投げ込んで、発狂したまま物語は幕を閉じる。うぶな男が思わせぶりな女に翻弄され破滅していくさまを、緑雨は突き放した皮肉な筆致で描いた。
登場人物
- 目賀田貞之進 堅物で評判のよい法律書生。柳橋の芸者・小歌に一目惚れし、報われぬ片恋の妄想を募らせた末に正気を失い破滅する主人公
- 小歌 柳橋の芸者。思わせぶりな一言でうぶな貞之進を惑わす、海千山千の花柳界の女
冒頭部(原文より)
大丈夫まさに雄飛すべしと、入らざる智慧を趙温に附けられたおかげには、鋤だの鍬だの見るも賤しい心地がせられ、水盃をも仕兼ねない父母の手許を離れて、玉でもないものを東京へ琢磨きに出た当座は、定めて気に食わぬ五大洲を改造するぐらいの画策もあったろうが、一年が二年二年が三年と馴れるに随って、金から吹起る都の腐れ風に日向臭い横顔をだん/\かすられ、書籍御預り申候の看板が目につくほどとなっては、得てあの里の儀式的文通の下に雌伏し、果断は真正の知識と、着て居る布子の裏を剥いで、その夜の鍋の不足を補われるとは、今初まったでもないが困った始末、ただ感心なのはあの男と、永年の勤労が位を進め、お名前を聞さえが堅くるしい同郷出身の何がし殿が、縁も無いに力瘤を入れて褒そやしたは、本郷竜岡町の下宿屋秋元の二階を、登って左りへ突当りの六畳敷を天地とする、ことし廿一の修行盛り、はや起をしば/\宿の主に賞揚された、目賀田貞之進という男だ。
「油地獄」斎藤緑雨(青空文庫)
末尾部(原文より)
嘘であるべく願って居た疑いの方からすれば、それが実であったゞけで小歌の廃業について怪む所はないが、実であるべく祈って居た打消しの方からすれば、それが全く嘘であったので、約束したでもないことが心変りかのように思われ、為に貞之進はほとんど狂する如くで、外に忿怒の色の現れるだけそれだけ、内に沈欝することのます/\多きを加えた。その日貞之進は頭から蒲団を被って、病気と云って学校へも行ず打臥して居たが、点燈頃むっくり起て戸外へ出で、やがて小さな鉄鍋に何やら盛って帰って来て、また床に這入って夜の一時とも思う頃徐々頭を挙げ、忘れて居たように急に火鉢へ山の如く炭を積んで、机の上にあった雑誌様のものを取ってそれを煽り立って居たが、活々と火のおこるを待って前の鍋を載せたのを見ると、中に盛られたものは油であった。油は次第にえて大小の粒のぶつ/\と沸立つ頃から、貞之進の形相は自然に凄じくなって、敲き附るように投込んだのは小歌の写真で、くるくると廻って沈んだと思うとすぐ浮上り、十二三分の間に写真は焦げ爛れて、昨日までは嬉しくながめられた目元口元、見る/\消て失ったを、まだ何か鍋の中に残って居るように、貞之進は手を膝に突いて瞬きもせずきっと瞻詰めてその夜の明るのも知らなんだが、火勢ようやく衰えて遂に灰となる時、貞之進の首は前に垂れて果は俯伏しになってしまった。早起の秋元の女房が、なお室内に残る煙に不審を立て、何の臭いかと貞之進の部屋の障子を、がらりと明けたその音に貞之進は驚き覚めて、や小歌かと突然起って足は畳に着かずふら/\と駈寄ったが、あっと云って後退る女房の声と同時に、ぱったりそこへ倒れて、無残、それから後は病の床、頬はこける眼は窪む、夜昼となしの譫言に、あの小歌めが、あの小歌めが。
「油地獄」斎藤緑雨(青空文庫)
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