外套(ゴーゴリ)のあらすじ・登場人物
新しい外套ひとつに賭けた男
- 社会
- 翻訳
- 文字数
- 36,935字
- 読了目安
- 約1時間14分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
ロシア・リアリズムの祖とされるゴーゴリが1842年に発表した中編(原題「シネーリ」)を、ゴーゴリの名訳者として知られる平井肇が訳したもの(岩波文庫、1938年)。ペテルブルグの役所で来る日も来る日も書類を写すことだけを喜びとする万年九等官アカーキイ・アカーキエウィッチが、爪に火をともすようにして新調した外套をめぐる物語。滑稽な語り口の底に、踏みつけにされる小役人への哀れみがにじみ、のちのロシア文学に大きな影響を与えた。「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」という、ドストエフスキーの言葉として伝わる評でも名高い。
あらすじ
ペテルブルグのある局に、アカーキイ・アカーキエウィッチという風采のあがらない九等官が勤めていた。年俸は四百ルーブル、同僚には頭に紙きれを振りかけられるほど侮られているが、書類を清書する仕事だけを無上の楽しみとし、家に帰ってもまた写しものをするような男である。厳しい冬が来て、すり切れた外套がもう繕えないと仕立屋ペトローヴィッチに言い渡されると、彼は新調を決意する。貯金の四十ルーブルに加え、夜の茶もろうそくもやめ、靴底が減らぬよう爪先で歩くほど切りつめ、思いがけず多かった賞与にも助けられて、ついに猫の毛皮の襟がついた新しい外套ができあがった。役所では皆が祝ってくれ、ある課長補佐の家の夜会にまで招かれる。ところがその帰り道、人気のない広場で二人組の男に外套を剥ぎとられてしまう。警察は取り合わず、同僚の勧めで「有力な人物」と呼ばれる勅任官に頼みに行くが、友人の前で威厳を見せたいその高官に頭ごなしに叱りつけられる。吹雪の中を帰った彼は熱を出し、うわごとを言いながらあっけなく息を引きとった。やがて都には、盗まれた外套を捜すという役人の幽霊が夜な夜な現われ、身分の別なく通行人の外套を剥ぎとるという噂が広まる——。
登場人物
- アカーキイ・アカーキエウィッチ 清書を何よりの楽しみとする万年九等官
- ペトローヴィッチ 片目の仕立屋。古外套の修繕を断り、新調を勧める
- 有力な人物 勅任官になったばかりの高官。外套の件で訪ねてきた主人公を叱りつける
- 課長補佐 新しい外套の祝いにと、自宅の夜会へ主人公を招く
冒頭部(原文より)
ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。今日では総じて自分一個が侮辱されても、なんぞやその社会全体が侮辱されでもしたように思いこむ癖がある。つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて、その中には、国家の威令が危殆に瀕していること、警察署長という神聖な肩書がむやみに濫用されていること等が明記されていたそうである。しかも、その証拠だといって、件の上申書には一篇の小説めいたはなはだしく厖大な述作が添えてあり、その十頁ごとに警察署長が登場するばかりか、ところによっては、へべれけに泥酔した姿を現わしているとのことである。そんな次第で、いろんな面白からぬことを避けるためには、便宜上この問題の局を、ただ【ある局】というだけにとどめておくに如くはないだろう。さて、そのある局に、【一人の官吏】が勤めていた――官吏、といったところで、大して立派な役柄の者ではなかった。背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、それに目がしょぼしょぼしていて、額がすこし禿げあがり、頬の両側には小皺が寄って、どうもその顔いろはいわゆる痔もちらしい……しかし、これはどうも仕方がない! 罪はペテルブルグの気候にあるのだから。官等にいたっては(それというのも、わが国では何はさて、官等を第一に御披露しなければならないからであるが)、いわゆる万年九等官というやつで、これは知っての通り噛みつくこともできない相手をやりこめるというまことにけっこうな習慣を持つ凡百の文士連から存分に愚弄されたり、ひやかされたりしてきた官等である。この官吏の姓はバシマチキンといった。
「外套」ゴーゴリ(青空文庫)
末尾部(原文より)
ところが、それ以上に顕著な事実は、それ以来ふっつりと、かの役人の幽霊が姿を現わさなくなったことである。おそらく勅任官の外套が彼の肩にぴったり合ったためであろう。少くとも、外套を剥ぎ取られたなどという噂は爾来どこへ行っても聞かれなかった。それでも、多くのまめで、苦労性な連中はいっかな心を落ちつけようとしないで、まだ都のどこか遠くの方角で官吏の幽霊が出るなどと噂していた。それに事実コロームナのある巡査はまぎれもない自分の眼で、一軒の家の蔭から亡霊の現われるところを目撃したのである。しかし、その巡査は生まれつき虚弱なほうで――ある時など、どこかの民家から飛び出してきた何でもない一頭の、よく肥った子豚に突き倒されて、あたりに居あわせた辻馬車屋たちの哄笑を買い、その揶揄を咎めて、その連中から二カペイカずつの煙草銭をせしめたほどであった。――それくらい虚弱な男だったから、彼は強いて幽霊を引き留めようともしないで、そのまま暗がりの中を尾行していったが、とうとう終いに幽霊が、突然くるりと後ろを振り向いて立ちどまりながら、「何ぞ用か?」と詰問するなり、生きた人間には見られないような大きな拳を突きつけたので、巡査は「いや、別に。」と言ったきり、ほうほうのていで後へ引っ返してしまった。しかし、この時の亡霊は、はるかに背が高くて、すばらしく大きな口髭をたてていた。そしてどうやらオブーホフ橋の方へ足を向けたようであったが、それなり夜の闇の中へ姿をかき消してしまった。
「外套」ゴーゴリ(青空文庫)
名文
それから長いあいだというもの、きわめて愉快な時にさえも、あの「かまわないで下さい! 何だってそう人を馬鹿にするんです?」と、胸に滲み入るような音をあげた、額の禿げあがった、ちんちくりんな官吏の姿が思い出されてならなかった。しかもその胸に滲み入るような言葉の中から、「わたしだって君の同胞なんだよ。」という別な言葉が響いてきた。
同僚にからかわれたアカーキイの一言が、若い官吏の心に残り続ける。「小さな人間」への憐れみを示す、ロシア文学史上名高い一節。
心ゆくまで書きものをすると、彼は神様があすはどんな写しものを下さるだろうかと、翌日の日のことを今から楽しみに、にこにこほほえみながら寝につくのであった。
写字だけを生きがいとする万年九等官アカーキイ・アカーキエウィッチの日常。貧しくもささやかに満ち足りた小役人の姿が描かれる。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。