故郷(魯迅)のあらすじ・登場人物
歩く人が多くなれば、道が出来る
- 心理
- 社会
- 翻訳
- 文字数
- 8,102字
- 読了目安
- 約16分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
二十年ぶりに故郷へ帰った「わたし」が、少年の日に心を通わせた閏土と再会し、その変わりように打ちのめされる魯迅の短篇(1921年)。井上紅梅の訳で、改造社版「魯迅全集」に収められた。日本では長く中学国語の教科書に採られ、「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る」という結びの一節が広く知られている。
あらすじ
厳寒をついて、二十余年ぶりに「わたし」は二千里を隔てた故郷へ帰ってくる。売り払われた老屋を引きはらい、母と甥の宏児を連れて他郷へ移るためである。記憶のなかの故郷はもっと佳いところだったはずだが、目の前にあるのは活気のない荒れた村だった。母との話のなかで閏土の名が出る。三十年前、祭りの支度の年に雇い人の子として屋敷に来た少年で、銀の首輪をつけ、海辺の西瓜畑で猹という獣を刺す話や、貝殻や跳ね魚の話を聞かせてくれた。わたしにとって彼は、高い塀に囲まれた暮らしの外に広がる世界そのものだった。やがて現れた閏土は、灰色の顔に深い皺を刻み、松の樹皮のような手をしていた。かつて「迅ちゃん」と呼んだ口が、恭しく「旦那さま」と言う。その一言で、二人のあいだに厚い壁があることをわたしは悟る。子だくさん、凶作、重い税——彼が求めたのは香炉と燭台だった。故郷を離れる船の中で、宏児と閏土の子の水生が再会を約束していたことを思いながら、わたしは新しい生活への希望と、その希望もまた手製の偶像ではないかという疑いのあいだを揺れる。
登場人物
- わたし 二十余年ぶりに故郷へ帰り、老屋を引きはらいにきた語り手
- 閏土 少年の日の遊び相手。いまは苦労にやつれた小作人
- 母 故郷を引きはらい、他郷へ移る
- 宏児 わたしの甥。閏土の子の水生と仲よくなる
- 楊二嫂 向かいの豆腐屋の女。皮肉をいいながら家財をねだる
冒頭部(原文より)
わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中で故郷に近づくに従って天気は小闇くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。 おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。 わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。わたしの故郷はもっと佳いところが多いのだ。しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。
「故郷」魯迅(青空文庫)
末尾部(原文より)
わたしはそう思うとたちまち羞しくなった。閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内々彼を笑っていた。彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。 夢うつつの中に眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。上には深藍色の大空に掛るまんまろの月が黄金色であった。 希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。 (一九二一年一月)
「故郷」魯迅(青空文庫)
名文
希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。
作品を結ぶ一節。変わり果てた故郷と幼なじみとの隔たりに打ちのめされた「わたし」が、それでも次の世代へ託す希望を、人が歩いてできる道にたとえる(井上紅梅訳)。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。