哀しき父(葛西善蔵)のあらすじ・登場人物
金魚を見ると子を思う父
- 家族
- 文字数
- 6,315字
- 読了目安
- 約13分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
葛西善蔵が1912年(大正元年)、広津和郎・谷崎精二らと創刊した同人誌「奇蹟」の創刊号に、葛西歌棄の名で発表した短編で、作家としての出発点にあたる。妻子と別れ、東京の場末の下宿を転々とする若い詩人の「彼」を描く。四つになる子どもは遠い郷里で老いた母に預けられ、「彼」は自らを「哀しき父」と呼んでいる。窓辺の梧桐を這う毛虫、町で目にするのを恐れる金魚、陰気な下宿の病人たちなど、身の回りの細かな事物が、子への思いと病の不安に結びついて語られる。のちに私小説の作家として知られる葛西の、貧窮と孤独と父性を見つめる姿勢が、すでにはっきりと表れた一編である。
あらすじ
若い詩人の「彼」は、またしても場末の下宿へ追い込まれていた。四月の末、不眠と動悸に悩む彼の持ち物は、夜具と机と、売れ残った桐の小箪笥だけである。窓辺の育ちの悪い梧桐を這う黒い毛虫に、彼は天候の変化まで読み取るようになっていた。そして彼は、自らを「哀しき父」と呼んでいる。
昨年の夏前まで、彼は妻と幼い子と郊外の小さな家で、貧しくも静かに暮らしていた。子どもの手を引いて溝へ金魚の餌をとりに行くのが日課だったが、生活は行き詰まり、一家は離散した。四つになる子は郷里で老いた母に育てられている。以来、金魚と子どもは彼の中で切り離せないものとなり、町で金魚を見ることを何より恐れるようになった。
梅雨前の下宿では、向かいの部屋の予備士官が腸閉塞で入院して死に、隣室の若い細君も病に臥している。彼自身も午後になると熱を出し、強い酒でようやく眠る日々を送る。夢の中で、子どもは堂々と肥え太り、威張った態度で医者を召し抱えると言っていた。郷里の母からは、孫が洋服を欲しがり、何も送ってくれないお父さんは嫌だと言っていると手紙が来る。彼は小箪笥を売って洋服を送ることにし、子に卑しい心を起こさせないでほしいと返事を書く。海岸へ静養に行く金をつくるため図書館通いを始めた彼は、ある朝、咳き込んで喀血する。しかし熱が落ち着くと、かえって心は静まり、これでライフの洗礼も済んだと思う。窓際の机ではガラス鉢の金魚が泳ぎ、彼は静かに詩作を続けようとしている。
登場人物
- 彼 妻子と別れ、東京の場末の下宿で暮らす若い詩人。自らを「哀しき父」と呼ぶ
- 子ども 四つになる彼の息子。郷里で祖母に育てられている
- 郷里の母 孫を守り育てる老いた母。占いを信じ、息子に孫の消息を書き送る
冒頭部(原文より)
彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。 四月の末であつた。空にはもや/\と靄のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀の子がヂユク/\啼きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形ならしのヤートコセが始まつてゐた……。 彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ獣のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても動悸がひどく感じられて鎮めようとすると、尚ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐の小箪笥だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの哀しい思ひ出の物なのであつた。
「哀しき父」葛西善蔵(青空文庫)
末尾部(原文より)
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ、これからはすこしおとなになるだらう……」 孤独な彼は、気まゝに寝たり起きたりしてゐる。そしていつか、育ちのわるい梧桐の葉も延び切つて、黒い毛虫もみえなくなつてゐる。彼の使つた氷嚢はカラ/\になつて壁にかゝつてゐる。窓際の小机の上には、数疋の金魚がガラスの鉢にしな/\泳いでゐる。 彼は静かに詩作を続けようとしてゐる。 (大正元年八月)
「哀しき父」葛西善蔵(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。