謀叛論(草稿)(徳冨蘆花)のあらすじ・登場人物
新しいものは常に謀叛である
- 社会
- 文字数
- 9,699字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
1911年(明治44年)2月1日、徳冨蘆花が第一高等学校で行った講演の草稿。大逆事件で幸徳秋水らが処刑されてから一週間後のことだった。蘆花は、自宅のある武蔵野から東京へ出る道すがら目にする井伊直弼と吉田松陰の墓から語り起こし、維新の志士も時の権力から見れば謀叛人であったと説く。大逆の企てには同意しないとしながらも、処刑された十二名を志士として悼み、彼らを追い詰めて刑を急いだ政府の責任を厳しく問う。「諸君」と聴衆に呼びかける演説の調子で書かれ、「新しいものは常に謀叛である」という一節で知られる。キリスト教徒であった蘆花の信念と、明治国家への批判がうかがえる文章。
あらすじ
僕は東京へ出るたびに世田ヶ谷を通り、豪徳寺の井伊直弼の墓と、谷を隔てた吉田松陰の墓を見る。五十年前に斬りつ斬られつした二人も、今から見れば反対の方向から今日の日本を造るために相槌を打ったにすぎない。維新の志士や蘭学者は、時の権力から見れば謀叛人であった。日本は成長したが、人類が一つになろうとする世界の大潮流はなお流れ続けており、そのためには自ら進んで身をささげる犠牲が要る。新式の吉田松陰はきっと現れる――そう思っていた矢先、明治四十四年の初めに十二名の謀叛人が殺された。僕は暴力に反対し、大逆の企てには同意しないが、彼らを殺したくはなかった。彼らは自由平等を夢みた志士であり、狭量な政府の圧迫が社会主義者を無政府主義者に変え、ヤケにさせたのだ。天皇の仁慈を疑うのではなく、二十四名を宥すよう諫める忠臣が一人もいなかったことこそ輔弼の責任であり、十二名を殺した閣臣こそ不忠の臣である。秘密の裁判から死後の干渉まで、政府の遣り口は謀殺に等しい。強制的な一致は自由を殺し、生命を殺す。諸君、謀叛を恐れてはならない。新しいものは常に謀叛である。肉体の死よりも、教えられた型のまま生きる霊魂の死こそ恐れるべきで、我々は生きるために常に謀叛しなければならない。西郷も逆賊とされたように、百年の公論は必ず彼らの志を悲しむであろうと述べ、人格を磨くことを怠ってはならないと結ぶ。
冒頭部(原文より)
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。
「謀叛論(草稿)」徳冨蘆花(青空文庫)
末尾部(原文より)
諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。
「謀叛論(草稿)」徳冨蘆花(青空文庫)
名文
諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
徳冨蘆花『謀叛論』(1911年)より。大逆事件で幸徳秋水らが処刑された直後、第一高等学校の講演で語った言葉の草稿。「新しいものは常に謀叛である」と、型に従うだけの生を霊魂の死として退ける。
原文を読む
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