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鬼涙村(牧野信一)のあらすじ・登場人物

面打ちの村に迫る担がれる夜

  • 風刺
  • 社会

牧野信一 1934年(昭和9年)12月 「文藝春秋」

文字数
14,163字
読了目安
約28分
表記
新字旧仮名
種別
小説

この作品について

牧野信一が1934年(昭和9年)12月の「文藝春秋」に発表した短編。のどかな村の酒倉の二階で、旅回りの面打ち職人「御面師」と暮らしながら、面作りの手伝いに明け暮れる「私」の一人称で語られる。村では秋の音頭小唄大会を控えて、出場者がこぞって鬼や天狗、ひょっとこの面を注文していた。だがこの村には、反感を買った者を覆面の一団が担ぎ上げて川へ放り込むという、恐ろしい私刑の風習があった。酒の香りだけで酔ったようになる「私」の夢うつつの視線を通して、村人たちの奇妙な人物像と、祭りを前にした不穏な空気が、誇張とユーモアのまじる饒舌な文体で描かれる。

あらすじ

秋の朝、酒倉の二階で「私」は、同居の御面師と面作りに追われている。地主の万豊の栗林では、面をかぶった子どもたちが栗を拾っては万豊をからかい、芋畑は奇妙な戦場と化していた。村では秋の音頭小唄大会に、出場者が皆面をかぶることになり、注文が絶えない。面をかぶれば「担がれる」騒ぎもなくなるだろう、という噂もあった。この村には、反感を買った者を覆面の一団が胴上げして運び、村境の川へ投げこむという私刑の風習があったのだ。春の祭りの夜、「私」は万豊が裸で宙に放り上げられながら連れ去られるのを目撃し、夏には村会議員のJ氏が担がれるのも見ていた。そしていま、次に担がれるのは酒倉の居候、つまり「私」だという噂が立っている。自分の姓名を極端に嫌う御面師が、実は「水流舟二郎」という名だと知ってから、「私」は水や流れという文字にまで不吉を覚えるようになっていた。ある晩、二人は仕上がった面を届けに出る。注文主の柳下父子、獣医の「法螺忠」、養魚場の「スッポン」は、いずれも次の犠牲者と噂される嫌われ者で、選挙の画策をしながら「私」たちにも対策を講じてやると恩着せがましく酒を勧める。その憎々しい顔ぶれを眺め、彼らが担がれるさまを空想して胸のすく思いをしていた「私」は、ふと柱の鏡に映る自分の顔を見て凍りつく。独りよがりで人を見下したようなその顔こそ、誰よりも先に狙われて当然の顔だった。「私」はわざと御面師の名を口にして先に帰れと言い、法螺忠はその名を笑ったうえで、「私」を生意気だと罵りながら席を立つ。

登場人物

冒頭部(原文より)

 鵙の声が鋭く気たゝましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空でゞもあるかのやうにちかぢかと澄んで耳を突く。けふは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下は未だ朝霧が立ちこめてゐたが、芋畑の向方側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射して、栗拾に駈けてゆく子供たちの影があざやかだつた。そして、見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しさうだつた。芋の収穫はもう余程前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で光りが流れるに従つて白い煙が揺れた。万豊は其処で小屋掛の芝居を打ちたいはらだが、青年団からの申込みで来るべき音頭小唄大会の会場にと希望されて不性無精にふくれてゐるさうだつた。

「鬼涙村」牧野信一(青空文庫)

末尾部(原文より)

「水流舟二郎君、僕はもう暫く此処で遊んでゆくから、若し落着かないなら先へ帰り給へな。」と云つた。 「ミヅナガレ舟二郎か――こいつはどうも打つてつけの名前だな。あはは。」と法螺忠が笑ふと、スツポンが忽ち聴耳を立てゝ、え? え?、え? と首を伸した。すると法螺忠は、後架へでも走るらしく、やをら立上ると、 「あいつは一体生意気だよ。碌々人の云ふことも聞かないで偉さうな面ばかりしてやがら、余つ程人を馬鹿にしてやがるんだらう。何だい、独りでオツに済して、何を伸びたり縮んだりしてやがるんだい。自惚れ鏡が見たかつたら、さつさと手前えの家へ帰るが好いぞ。畜生、まご/\してやがると、俺らがひとりで引つ担いで音をあげさせてやるぞ。」などゝ呟き、大層癇の高ぶつた脚どりであつた。

「鬼涙村」牧野信一(青空文庫)

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