少数と多数(エマ・ゴールドマン)のあらすじ・登場人物
進歩は少数者から始まる
- 社会
- 翻訳
- 文字数
- 6,280字
- 読了目安
- 約13分
- 表記
- 新字旧仮名
この作品について
エマ・ゴールドマンの評論集『アナキズムその他の論文』(1910年)に収められた「Minorities Versus Majorities」を、伊藤野枝が訳したもの。1914年(大正3年)3月に東雲堂書店から出た訳書『婦人解放の悲劇』に収められた。現代は「質」よりも「量」の時代だという診断から出発し、政治・教育・文学・芸術の各分野で、群衆と多数者が個人の独創をどのように押しつぶしているかを論じる。イプセンの戯曲『民衆の敵』やエマソンの言葉を引き、歴史上の改革はつねに少数者から始まったと説く、個人主義の色の濃い一編。
あらすじ
筆者は、現代の傾向を「量」と要約する。かつて仕事の質に誇りを持った労働者は大量の品を生む機械となり、政治では主義や正義よりも数がものを言う。政党の腐敗が明らかになっても、判断力と道義的勇気を欠いた多数者は指導者に従うばかりだと批判し、イプセンの戯曲の主人公ストックマンの「最も恐るべき真理と正義の敵は団結せる多数者だ」という叫びを引く。教育・文学・演劇・美術でも、売れ行きと俗受けが質を押しのけ、独創的な人々は零落していると述べる。続いて、キリスト教や宗教改革、フランス革命、アメリカの奴隷解放、社会主義運動の歴史をたどり、偉大な思想はつねに少数者から生まれ、多数者に広まると形骸化してきたと論じる。群衆を退けるのは同情がないからではなく、群衆が独創と自由な思想を押しつぶすからだとして、社会の幸福は賢明な少数者の熱意と勇気によってのみ実現されると結ぶ。
冒頭部(原文より)
私は現代の傾向を要約して「量」であると云ひたい。群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質」を破壊しつつある。今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒らに産出する無能の自働機械に変つてしまつた。かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。 政治に於ては量以外に何物も省みられない。量の増加につれて、主義、理想、正義等は悉く多数者の為に没却せられてしまふ。政治上の種々なる党派は常に虚偽と欺瞞と狡猾と陰謀を逞うして相互の主権を争つてゐる。成功さへすれば勝利者として必ず多数者の歓迎を受ける――彼等は皆さう信じてゐる。成功――それのみが唯一の神。品性に対してどれ程恐しい価を払つてゐるかといふ事はまるで問題にもしてゐない。私どもは今更進んでこの悲しい事実を証拠立てる必要はない。
「少数と多数」エマ・ゴールドマン(青空文庫)
末尾部(原文より)
かく云ふ私は必ずしも地上の追放者と被圧制者に対する同情がないからではない。又彼等の送る生活が如何に悲惨であり、侮辱せられたるものであるかを知らないからではない。私は只だ善の創造力を欠如せるが故に群衆を唾棄するのである。否、否、私は只だ彼等が一団の群衆として何等の正義、平等をも代表し得ないことをあまりによく知りぬいてゐるから。彼等は人類の精神を圧服し、肉体を束縛した。群衆は人生を砂漠の如く単調灰色なるものと化さんことをのみ目的とする。彼等は常に独創と個人主義と自由思想の絶滅者である。『群衆は浅薄で不具で彼等の要求と勢力とは常に有害である。彼等に媚びる必要は決してない、彼等は只だ教育せらるべきである。私は群集に対して譲歩すべき何物も有してはゐない。私は彼等を訓練し、分離せしめて優秀なる個人を撰抜せんと欲するばかりである。群集! 彼等は禍なるかな。群衆は無用である。私は唯だ正直なる男子と美しく愛らしい賢婦人とを要求する。』とエマアソンは云つた。私はその言葉を彼と共に信ずる。 言葉を換へて云へば、健全なる社会状態の幸福と真理とは唯だ賢明なる少数者の妥協せざる熱心と勇気と決断によつて実現せられるのである。
「少数と多数」エマ・ゴールドマン(青空文庫)
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