ある崖上の感情(梶井基次郎)のあらすじ・登場人物
崖の上から覗く町の窓
- 心理
- 文字数
- 11,295字
- 読了目安
- 約23分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
梶井基次郎が1928年(昭和3年)7月号の同人誌「文芸都市」に発表した短編。山の手のカフェで行き合った二人の青年が、崖の上から見下ろす町の窓について語り合う場面から始まる。酔った生島は、他人の窓をのぞき見る恍惚を熱っぽく語り、聴き手の石田は、窓のなかの人々がはかない運命を負って生きているように見えると答える。以後、二人それぞれの側から、崖の上と崖下の部屋、見る者と見られる者の関係が交互に描かれる。全四章の構成で、梶井の作品としては珍しく三人称で複数の人物を動かした作で、欲望とのぞき見の心理を扱いながら、夜の町の窓を一つずつ写しとる描写が印象を残す。
あらすじ
蒸し暑い夏の宵、山の手のカフェで二人の青年が言葉を交わす。酔った生島は、崖の上から下の町の窓を眺めるのが好きで、とりわけ男女の秘め事が見えそうな窓をじっと見つめているときの、半ば夢を見るような恍惚こそがすべてだと語る。聴き手の石田は、窓のなかの人々ははかない運命を背負って生きているように見えると応じ、ウィーンの宿で夜の窓を見た旅人の小説の話をするが、崖へ一緒に行こうという誘いには乗らない。
生島は崖下の家に間借りし、四十過ぎの寡婦である家主と愛情のない関係を続けて、その白々しさに嫌悪を募らせていた。彼にただ一つ残った空想は、彼女と寝床を共にしているときに窓を開け放ち、崖路に立つ誰かに自分たちの姿をさらすことだった。そして、自分があの青年を欲望の傀儡にしようとしていたのではないかと思い悩む。
石田は教えられた崖路へ散歩に出かけ、ミシンを踏む男やラジオを聴く人の窓を眺めて、故郷の商人宿で見た貧しい父子の朝餉を思い出す。生島は、崖の上に浮かぶ人影をあの青年だと思い、自分から分離した欲望の二重人格だと感じて戦慄する。
ある晩、崖の上の石田は、ひそかに見たいと思っていた窓の情景をついに目にする。そのとき、産科病院の窓では寝台を囲む人々が一斉に動き、一人の人間が死んだことが知れた。石田は、喜びや悲しみを絶した厳粛な無常の感情に打たれ、石棺に淫らな戯れを彫った古代ギリシアの風習を思う。病院の窓の人々も、崖下の窓の人々も、互いを知らず、崖の上にこんな感情があることも知らないのだと。
登場人物
- 生島 大学を出たものの職がなく、崖下の家に間借りしている青年。崖の上から他人の窓をのぞく恍惚に取りつかれている
- 石田 カフェで生島の話を聞く青年。窓のなかの人々にはかない運命を感じる
- 小母さん 生島が間借りしている家の主婦。四十過ぎの寡婦で、生島と愛情のない関係を続けている
冒頭部(原文より)
ある蒸し暑い夏の宵のことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、孤独な客が他所のテーブルを眺めたりしながら時を費すことはそう自由ではない。そんな不自由さが――そして狭さから来る親しさが、彼らを互いに近づけることが多い。彼らもどうやらそうした二人らしいのであった。 一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子にかまわず肱を立てて、先ほどからほとんど一人で喋っていた。漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。
「ある崖上の感情」梶井基次郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
彼が何気なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの予感でぎくっとした。そしてそれがまごうかたなく自分の秘かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を外らせた。そしてそんな彼の眼がふと先ほどの病院へ向いたとき、彼はまた異様なことに眼を瞠った。それは寝台のぐるりに立ちめぐっていた先ほどの人びとの姿が、ある瞬間一度に動いたことであった。それはなにか驚愕のような身振りに見えた。すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、そこにあるものはやはり元のままの姿であったが、彼の心は再び元のようではなかった。 それは人間のそうしたよろこびや悲しみを絶したある厳粛な感情であった。彼が感じるだろうと思っていた「もののあわれ」というような気持を超した、ある意力のある無常感であった。彼は古代の希臘の風習を心のなかに思い出していた。死者を納れる石棺のおもてへ、淫らな戯れをしている人の姿や、牝羊と交合している牧羊神を彫りつけたりした希臘人の風習を。――そして思った。 「彼らは知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。崖下の窓の人びとは、病院の窓を。そして崖の上にこんな感情のあることを――」
「ある崖上の感情」梶井基次郎(青空文庫)
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