晩菊(林芙美子)のあらすじ・登場人物
一年ぶりの電話を受けた日
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 15,998字
- 読了目安
- 約32分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
林芙美子が戦後に書いた短編で、1948年(昭和23)11月に『別冊文藝春秋』に発表された。女流文学者賞を受け、のち1954年に成瀬巳喜男監督で映画化された。主人公は五十六歳の元芸者きん。夕方五時ごろ訪ねたいという、一年ぶりの男からの電話を受けた場面から始まる。きんは風呂へ急ぎ、氷でくるんだガーゼで顔をマッサージし、鏡の前で時間をかけて身支度を整える。老いを悟られまいとする身繕いの細部と、胸の内でつぶやくような語りが、短い時間のなかに積み重ねられていく。
あらすじ
夕方五時頃うかがいます――昔の男・田部からの電話に、元芸者のきんは一年ぶりの再会へ向けて周到に身支度をする。風呂で肌を確かめ、氷で顔をマッサージし、冷酒をひとくちあおって血色をつくる。若い頃はエハガキにもなった美貌を、五十六歳のいまも「長年の修業」で保ってみせるきんにとって、男のない生活は考えられず、恋はひとつひとつが芸術品なのだ。だが、戦争をくぐり抜けて現れた田部は、事業に行き詰まり、きんに金の無心をするだけの俗な中年男に変わり果てていた。かつての恋の思い出をなぞろうとする男と、思い出だけを美しく保ちたい女。酒が進むほどに二人の胸の内は食い違い、やがて男の眼には剣呑な影さえ差しはじめる。再会の一夜がむしろ「お互いを拒絶しあうため」の時間へと変わっていく皮肉を、作者は感傷を排した硬質な筆で描き切る。老いた女の矜持と孤独をここまで容赦なく、しかも艶やかに描いた小説はまれであり、成瀬巳喜男による映画化でも知られる。
登場人物
- 相沢きん 五十六歳の元芸者。若い頃はエハガキにもなった美貌の持ち主で、老いてなお女であることを手放さない
- 田部 きんのかつての恋人。戦争から戻り、いまは事業に行き詰まってきんに金の無心に来る
- きぬ きんの家に仕える唖の女中
冒頭部(原文より)
夕方、五時頃うかがいますと云う電話があったので、きんは、一年ぶりにねえ、まア、そんなものですかと云った心持ちで、電話を離れて時計を見ると、まだ五時には二時間ばかり間がある。まずその間に、何よりも風呂へ行っておかなければならないと、女中に早目な、夕食の用意をさせておいて、きんは急いで風呂へ行った。別れたあの時よりも若やいでいなければならない。けっして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆっくりと湯にはいり、帰って来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になったガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。
「晩菊」林芙美子(青空文庫)
末尾部(原文より)
きんは、茶棚からヒロポンの粒を出して素早く飲んだ。ウイスキーはまだ三分の一は残っている。これをみんな飲ませて、泥のように眠らせて、明日は追い返してやる。自分だけは眠っていられないのだ。よく熾った火鉢の青い炎の上に、田部の若かりし頃の写真をくべた。もうもうと煙が立ちのぼる。物の焼ける匂いが四囲にこもる。女中のきぬがそっと開いている襖からのぞいた。きんは笑いながら手真似で、客間に蒲団を敷くように云いつけた。紙の焼ける匂いを消す為に、きんは薄く切ったチーズの一切れを火にくべた。「わア、何焼いてるの」厠から戻って来た田部が女中の豊かな肩に手をかけて襖からのぞき込んだ。「チーズを焼いて食べたらどンな味かと思って、火箸でつまんだら火におっことしちまったのよ」白い煙の中に、まっすぐな黒い煙がすっと立ちのぼっている。電気の円い硝子笠が、雲の中に浮いた月のように見えた。あぶらの焼ける匂いが鼻につく。きんは、煙にむせて、四囲の障子や襖を荒々しく開けてまわった。
「晩菊」林芙美子(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。
同じ作家の作品
近い作品
- 三十歳 1948年(昭和23年)5月
- 女類 1948年(昭和23年)4月
- 二十七歳 1947年(昭和22年)3月
- 恋をしに行く(「女体」につゞく) 1947年(昭和22年)1月
- 私は海をだきしめていたい 1947年(昭和22年)1月
- 花火 1947年(昭和22年)5月