放浪記(林芙美子)のあらすじ・登場人物
日記体で綴る食堂の秋
- 青春
- 社会
- 文字数
- 103,309字
- 読了目安
- 約3時間27分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
林芙美子の出世作で、日記体の自伝的作品。この青空文庫版は、1928年(昭和3年)10月から雑誌『女人芸術』に連載された初出の形にもとづく。冒頭は「十月×日」から始まる、住み込みで働く食堂の日々の記録で、小さな天窓から秋の空を見上げ、同じ部屋で寝る女たちとの会話や、日本髪に結った日のささやかな喜びが、日付ごとの短い断章で積み重ねられる。貧しさや疲れを記す一方で、「何か書きたい」という思いが何度も書き留められる。1930年(昭和5)7月に改造社から単行本が出ると、2か月で40版を重ねるベストセラーになった。のちに作者が大きく手を入れた版が流布していて、初出とは文章も構成も異なる。
あらすじ
「十月×日」――日付だけを掲げた日記の連なりのかたちで、「私」の放浪の日々が語られる。カフェーの女中部屋の天窓から秋空を見上げ、住み込みの疲れに夢も見ずに眠り、それでも「真実に何か書きたい」と願う。故郷を持たず、行商の母を思い、当てにならない男に泣かされ、質屋通いと空腹に追われながら、女給、事務員、露天商と職を転々とする。一杯の熱い飯、一冊の詩集、隣人たちの人情――どん底の暮らしのなかのささやかな喜びが、投げ出すような口語のリズムと、ふいに挟まれる詩によって、湿り気よりもむしろ野性的な明るさをもって描かれていく。飢えても卑屈にならず、絶望のすぐ隣で「生きるは五十年」とうそぶいてみせるヒロインの姿は、昭和恐慌下の読者の心をつかみ、林芙美子の名を一躍高からしめた。日本の自伝文学・女性文学の系譜における記念碑的作品である。
登場人物
- 私 語り手。行商人の娘として各地を転々と育ち、職を変えながら東京の底辺を生きる。詩を書くことだけを支えにする
- 母 九州で行商を続ける「私」の母。娘とハガキや為替をやり取りする
- 島の男 「私」を捨てて去った恋人。因島の出身で、思い出すたび「私」の心をかき乱す
冒頭部(原文より)
秋が来たんだ 十月×日 一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。 秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。 秋はいゝな……。 今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。 そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。 なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。
「放浪記」林芙美子(青空文庫)
末尾部(原文より)
窓をあけると、三月の陽を浴びて、画学生たちが、すもうを取ったり、壁に凭れたり、あんなにウラウラと暮らせたらゆかいだろう。 私も絵は好きなんですよ、ホラ! ゴオギャンだの、ディフィだの好きです。 「アパートに空間ありませんか!」 新鮮な朗らかな笑い声がはじけると、一せいに彼達の瞳が私を見上げる。 その瞳には、空や山や海や――。 私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。 焦心、生きるは五十年
「放浪記」林芙美子(青空文庫)
名文
海が見える。 海が見える。 五年振りに見る、旅の古里の海! 汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。
東京での貧しい暮らしに疲れた「私」が、汽車で尾道へ帰る場面。少女時代を過ごした町の海を前にした胸の高鳴りが、繰り返しの一行にそのまま表れている。
原文を読む
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