断崖の錯覚(太宰治)のあらすじ・登場人物
新進作家になりすました夜
- ミステリ
- 青春
- 文字数
- 12,494字
- 読了目安
- 約25分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 静岡県
この作品について
1934年(昭和9年)4月、雑誌「文化公論」に発表された初期の短編。大作家に憧れながら何事も実行できない臆病な一高生が、冬休みに訪れた海辺の温泉地で、ふとした一言から新進作家の名で宿帳に記してしまう。偽りの名で受けた歓待と、そこで生まれた恋が、思いがけない事態へ転がっていく告白体の物語。冒頭から語り手が「恐ろしい犯罪者」の影を口にし、読者を引き込む。
あらすじ
大作家になるには何でも経験しなければと思いつつ、臆病で何もできない一高の学生がいた。二十歳の正月、日本橋の呉服問屋の一人息子の彼は、『金色夜叉』ゆかりの温泉地の旅館に泊まり、女中についうっかり「ここなら小説が書けそうです」「今月末が〆切」と口走り、宿帳に実在の新進作家の名を記してしまう。先生と呼ばれて有頂天になった彼は、喫茶店「いでゆ」で断髪の少女・雪を見て恋に落ち、ウイスキーに酔って失態を演じたことを取り繕おうと小説『初恋の記』を書き上げる。雪は作家の愛読者で、彼を本物と思い込んだまま宿へ泊まる。夜明け、二人は裏山へ登るが、雪が本物の作家の名で彼を呼んだことで正体を明かせなくなり、彼は百丈の断崖から雪を突き落とす。朝霧と距離のおかげで、居合わせた木こりは疑わず、事故として片づけられた。五年後、名を借りた作家は大家になったが、彼は雪への思慕に苦しみ続ける。
登場人物
- 私 一高の学生。日本橋の呉服問屋の一人息子
- 雪 喫茶店「いでゆ」の断髪の少女。作家の愛読者
- 新進作家 私が名を借りた実在の作家。作中で名は伏せられる
冒頭部(原文より)
その頃の私は、大作家になりたくて、大作家になるためには、たとえどのようなつらい修業でも、またどのような大きい犠牲でも、それを忍びおおせなくてはならぬと決心していた。大作家になるには、筆の修業よりも、人間としての修業をまずして置かなくてはかなうまい、と私は考えた。恋愛はもとより、ひとの細君を盗むことや、一夜で百円もの遊びをすることや、牢屋へはいることや、それから株を買って千円もうけたり、一万円損したりすることや、人を殺すことや、すべてどんな経験でもひととおりはして置かねばいい作家になれぬものと信じていた。
「断崖の錯覚」太宰治(青空文庫)
末尾部(原文より)
それから、五年経っている。しかし、私は無事である。しかし、ああ、法律はあざむき得ても、私の心は無事でないのだ。雪に対する日ましにつのるこの切ない思慕の念は、どうしたことであろう。私が十日ほど名を借りたかの新進作家は、いまや、ますます文運隆々とさかえて、おしもおされもせぬ大作家になっているのであるが、私は、――大作家になるにふさわしき、殺人という立派な経験をさえした私は、いまだにひとつの傑作も作り得ず、おのれの殺した少女に対するやるせない追憶にふけりつつ、あえぎあえぎその日を送っている。
「断崖の錯覚」太宰治(青空文庫)
原文を読む
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