俘囚(海野十三)のあらすじ・登場人物
空井戸に落とした夫の影
- 怪奇
- ミステリ
- 文字数
- 14,939字
- 読了目安
- 約30分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
海野十三が1934年(昭和9年)2月号の「新青年」に発表した怪奇小説。語り手は、研究室に籠もって屍体の解剖ばかりしている外科医の博士を夫に持つ妻・魚子。年下の恋人である銀行員の松永をつなぎとめようと、彼女は夫を邸の奥庭の空井戸へ突き落とす決心をする。物語は、酒に酔った「あたし」の奔放な一人語りで進み、夫殺しのあとに押し寄せる不安と孤独が生々しく綴られる。やがて松永の勤める銀行で、入口のない金庫室から現金が奪われ、番人が奇怪な姿で殺される事件が起こる。医学の空想を怪奇の方向へ突きつめた一編で、のちの「蠅男」とは姉妹作とされる。
あらすじ
外科医の室戸博士の妻・魚子は、十何年も研究室で屍体ばかりいじり、自分に指一本触れない夫を見下し、年下の銀行員・松永との逢瀬に溺れていた。松永が離れていくのを恐れた魚子は、今夜夫を殺すと彼に告げる。月のない夜、解剖室の夫を、奥庭の空井戸が怪しいと誘い出した魚子は、井戸を覗きこむ夫を突き落とし、さらに大石を投げ落として、重い鉄蓋を元どおりに閉じた。ところが夫の財産は思いのほか乏しく、松永も翌晩は姿を見せない。罪の意識と孤独に半狂乱になる魚子のもとへ、やがて松永が戻り、銀行の入口のない金庫室から三万円が奪われ、番人が臓器をすべて抜き取られて殺されていたと語る。翌朝、松永は「鼻と唇を失った」という震える置き手紙を残して消えていた。床には夫の愛用した煙草の吸い殻。そこへ死んだはずの夫が手術鞄を下げて現れ、魚子は麻酔をかがされる。目覚めると両腕と両脚を切り落とされ、顔には松永の鼻と唇が縫いつけられて、天井裏に鎖でつながれていた。夫は三度の食事を口に運び、「妻の道、妻の運命」を思い知らせると言う。十日ほど後、警官隊が研究室を捜したが二人を見つけられず、床に下ろされた壺だけがしばらく揺れ続けた。七日後、探偵の帆村が現れ、その壺を叩き割る。中にいたのは、自らの体を極限まで切り詰めた博士の餓死屍体だった。博士は人造の手足を付け外しして細い送風管から金庫室へ忍びこんでいたのだ。帆村は博士の日記にあるとおり夫人はアルプスで殺されたと告げて立ち去り、天井裏の魚子の叫びは届かない。夫が死ねば妻も死ぬ――餓死を待ちながら、魚子は夫の言葉の意味をようやく悟る。
登場人物
- 魚子 語り手の「あたし」。外科医の室戸博士の妻で、年下の恋人のために夫を殺そうとする
- 室戸博士 魚子の夫。研究室に籠もって屍体の研究に没頭する外科の権威
- 松永哲夫 二十七歳の銀行員で、魚子の恋人
- 帆村 探偵。銀行の金庫室の事件と博士の行方を追う
冒頭部(原文より)
「ねエ、すこし外へ出てみない!」 「うん。――」 あたしたちは、すこし飲みすぎたようだ。ステップが踉々と崩れて、ちっとも鮮かに極らない。松永の肩に首を載せている――というよりも、彼の逞しい頸に両手を廻して、シッカリ抱きついているのだった。火のように熱い自分の息が、彼の真赤な耳朶にぶつかっては、逆にあたしの頬を叩く。
「俘囚」海野十三(青空文庫)
末尾部(原文より)
「待って!」 あたしは力一杯に叫んだ。しかしその声は彼等の耳に達しなかった。ああ、馬鹿、馬鹿! 帆村探偵のお馬鹿さん! ここにあたしが繋がれているのが判らないのかい。夫は、あの井戸の蓋の穴から逃げ出したのだ。呪いの大石塊は、彼に命中しなかったのだ。ああ今は、あたしには餓死だけが待っている。お馬鹿さんが引返して来る頃には、あたしはもう此の世のものじゃ無い。夫が死ねば、妻もまた自然に死ぬ! 夫の放言が今死に臨んで、始めて合点がいった。夫はいつか、こんなことの起るのを予期していたのか知れない。あたしもここで、潔く死を祝福しましょう!
「俘囚」海野十三(青空文庫)
原文を読む
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