疑惑(芥川龍之介)のあらすじ・登場人物
濃尾地震の夜の告白
- 心理
- 文字数
- 12,342字
- 読了目安
- 約25分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 岐阜県
この作品について
1919(大正8)年7月、「中央公論」に発表された芥川龍之介の短編。倫理学の講演のため岐阜県大垣町に滞在していた「私」の座敷に、ある夜、指の一本欠けた見知らぬ男が現れ、二十年来自分を悩ませてきた問題について意見を聞きたいと語り出す。男の身の上話の背景にあるのは、1891(明治24)年の濃尾大地震と、その後の大垣の町である。物語の大部分は男が「ございます」調で語る告白で占められ、それを聞く「私」の座敷の静けさ――ランプの油を吸い上げる音や床の間の楊柳観音――が外枠として置かれる。大災害の記憶と、人の心の奥にある自分でも見通せないものを題材にした作品で、題名の「疑惑」が何に向けられたものかは、告白を読み進めるうちに明らかになる。
あらすじ
十年あまり前の春、倫理学者の「私」は講演のため岐阜県大垣町に一週間ほど滞在し、素封家N氏の別荘に泊まっていた。滞在も終わりに近いある夜、左手の指が一本欠けた四十がらみの男・中村玄道が座敷に現れ、自分の身の上について意見を聞きたいと語り出す。明治二十四年、藩侯の建てたK小学校の教員だった玄道は、校長の遠縁にあたる妻・小夜と静かに暮らしていた。十月二十八日の濃尾大地震で家がつぶれ、小夜は梁に下半身を挟まれる。助け出せぬまま火の手が迫り、玄道は生きながら焼かれるよりはと、落ちていた瓦で妻の頭を打って死なせた。その事実を誰にも打ち明けられないまま一年余りがたち、校長の勧めで、N家の美しい二番娘との縁談がまとまる。ところが玄道は次第にふさぎ込み、本屋の店先で震災を描いた風俗画報の、梁の下で苦しむ女の絵を見て以来、自分は初めから妻を殺したい心があり、地震はその機会を与えただけではないかという疑惑に責められる。肉体的な欠陥のあった妻を内心憎んでいた記憶もよみがえり、さらに同僚から、梁の下敷きになった酒屋の女房が、火事で梁が焼け折れたために助かった話を聞いて、彼は気を失いかける。縁談を断る勇気も出ないまま、地震から二年後の十月、N家で婚礼の日を迎えた玄道は、花嫁の姿を前に「私は人殺しです」と叫んでしまう。その日から狂人と呼ばれて余生を送ってきた玄道は、人の心の底に潜む怪物のことを語り、自分が狂人かどうかは先生の判断に任せると言う。「私」はランプの前で、黙って坐っているよりほかなかった。
登場人物
- 私 倫理学者。講演のため大垣町に滞在し、夜更けに見知らぬ男の話を聞く
- 中村玄道 もと小学校の教員。左手の指が一本欠けた四十がらみの男
- 小夜 玄道の妻。校長の遠縁で、無口でどこか影の薄い女
- 校長 小夜の親代わり。玄道に再婚話を持ちかける
冒頭部(原文より)
今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜県下の大垣町へ滞在する事になった。元来地方有志なるものの難有迷惑な厚遇に辟易していた私は、私を請待してくれたある教育家の団体へ予め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸私の変人だと云う風評は夙にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家N氏の別荘とかになっている閑静な住居を周旋された。私がこれから話そうと思うのは、その滞在中その別荘で偶然私が耳にしたある悲惨な出来事の顛末である。
「疑惑」芥川龍之介(青空文庫)
末尾部(原文より)
中村玄道はこう語り終ると、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、 「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、ただ一つ御耳に入れて置きたいのは、当日限り私は狂人と云う名前を負わされて、憐むべき余生を送らなければならなくなった事でございます。果して私が狂人かどうか、そのような事は一切先生の御判断に御任かせ致しましょう。しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。――とまあ私は考えて居るのでございますが、いかがなものでございましょう。」 ランプは相不変私とこの無気味な客との間に、春寒い焔を動かしていた。私は楊柳観音を後にしたまま、相手の指の一本ないのさえ問い質して見る気力もなく、黙然と坐っているよりほかはなかった。
「疑惑」芥川龍之介(青空文庫)
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