八十八夜(太宰治)のあらすじ・登場人物
ロマンを求めた笠井さんの旅
- 心理
- 風刺
- 文字数
- 13,624字
- 読了目安
- 約27分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 長野県
この作品について
1939年(昭和14年)8月、雑誌「新潮」に発表された短編。通俗小説に追われて呆けたように暮らす三十五歳の作家・笠井一が、有り金を握って信州の温泉場へ「脱走」する。作者は主人公を「笠井さん」と呼んで突き放し、自意識過剰な人物の見栄と臆病を、軽いユーモアを交えて描く。笠井という名の作家は、「メリイクリスマス」「狂言の神」など他の太宰作品にも現れる。
あらすじ
貧乏で、通俗小説を書き続けるうちに呆けてしまった作家・笠井一さん、三十五歳。八方ふさがりの気分を一挙に晴らそうと、有り金五十円ほどを持って信州へ旅に出る。汽車の中で、同乗した青年たちが口にする画家や作家の名をひとつも思い出せず、自分の衰えにうろたえる。下諏訪の町は陰惨で、あわてて上諏訪の馴染みの宿「滝の屋」へ駆けつけると、女中頭のゆきさんが迎えてくれた。意気込んで酒を呑んだ夜は吐いて眠り、翌朝は電話の声の主だった若い女中と気安くなる。だがその場面をゆきさんに見られてしまい、笠井さんは「永遠にウェルテルではない」と地団駄を踏み、逃げるように宿を発って、二等車で帰宅する。金は半分以上も残っていた。要するに、いい旅行であった、と語り手は言う。
登場人物
- 笠井一 三十五歳の作家。貧しさと通俗小説に疲れて旅に出る
- ゆき 上諏訪の宿「滝の屋」の女中頭。二十六歳で落ち着いた東京の人
- 若い女中 十七、八歳で体の細長い娘。電話の声で笠井さんと知り合う
- 女将 滝の屋の四十歳前後の女主人。青白い顔で冷ややかに挨拶する
冒頭部(原文より)
笠井一さんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに、呆けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。
「八十八夜」太宰治(青空文庫)
末尾部(原文より)
どうにも、やり切れなくて、笠井さんは停車場へ行って二等の切符を買った。すこし救われた。ほとんど十年ぶりで、二等車に乗るのである。作品を。――唐突にそれを思った。作品だけが。――世界の果に、蹴込まれて、こんどこそは、謂わば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。 まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかも知れぬ。
「八十八夜」太宰治(青空文庫)
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