逃げたい心(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
愛する家に帰りたくない人
- 心理
- 風刺
- 文字数
- 18,362字
- 読了目安
- 約37分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 長野県
- 新潟県
この作品について
1935年(昭和10年)8月、「文藝春秋」に発表された坂口安吾の短篇。働いたことがなく書き物にも取り組まない地方の素封家・蒲原氏と、その家族が、失踪した息子を迎えに長野へ向かい、そのまま越後の山あいの温泉へ足をのばす。ひたすらに逃げ、帰りたくないという感情が、おかしみと哀感をまじえてゆったりと描かれる。長野・松之山温泉一帯の山の風物が重なる、旅の小説でもある。
あらすじ
四十七歳の蒲原氏は、地方の豪農の主人で、一度も働いたことがなく、二十年来の書き物もはかどらない。無気力だが人が良く、妻と先妻の子の魚則、秋蘭の家族に囲まれている。周期的に失踪する息子の魚則が長野の警察に保護されたと知らせが入ると、蒲原氏は貧乏徳利の話で気をそらそうとするが、結局家族と画家の栗谷川浩平とともに自動車で長野へ向かう。夜の長野で魚則を引き取った一行は、蒲原氏の希望で越後の山底にある松之山温泉へ静養に行く。蒲原氏は温泉の背後の山や谷、山仕事帰りの女たちに心を奪われ、銅色の肌の娘との湯の会話や、頭上から落ちてきた石をきっかけに、帰りたくない思いをつのらせる。温泉を発つ前日の夕暮れ、蒲原氏は一人で山へ分け入り、帰りの乗合自動車に飛び乗って十日町まで行ってしまう。一晩を過ごして翌朝戻ると宿は大騒ぎだったが、一同は笑うほかなく、予定どおり汽車で帰途についた。
登場人物
- 蒲原龍彦 四十七歳。地方の素封家で、働いたことがない。丸顔でお人好し
- 魚則 蒲原氏の長男。周期的に失踪する
- 秋蘭 蒲原氏の長女
- 蒲原夫人 二十七歳の後妻。良人を理解している
- 栗谷川浩平 魚則の友人の若い画家
冒頭部(原文より)
蒲原氏は四十七歳になつてゐた。蒲原家は地方の豪農で、もとより金にこまる身分ではなかつたが、それにしても蒲原氏のやうに、四十七といふ年になるまで働いて金をもらつた例がなく、事業や政治に顔を出した例もなく、かういふ身分の人々にありがちな名誉職にたづさはつた例もないといふ人は珍しいに相違なかつた。蒲原龍彦の名前は門札のほかに存在しないやうなものだつた。 勿論働かないことをもつて一生の主義とするといふやうな尤もらしい主張があつたわけではなく、むしろあべこべに、元来主張するところのものを何一つ持てないほど無気力で弱気で、そのうへ生活の金には全然こと欠かないところから、ずるずるべつたり四十七年ぼんやり暮したわけであつた。平凡無難といへばこの人ほど平凡無難な金持もないわけで、類ひのないほど人が好かつた。
「逃げたい心」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
翌朝目覚めた蒲原氏は、明るい太陽の光の下では、昨夜の縹渺と流れた心を殆んど朦朧としか思ひだすことができなかつた。乗合に乗つてただ茫然と温泉へ帰ると、そこでは残された一行が宿屋ともども大騒ぎを演じてゐたが、自分のしでかした行動の結果に一片の反省も思ひ至らぬ面持で朦朧と舞ひ戻つた蒲原氏が、ポツポツ語りだすあらましの事情をきいて、張りつめた気が一時に弛んだ一同はゲタゲタと笑ひだすほかに仕方がなかつた。 そこで一行は予定の通り自動車を命じ、昨夜は蒲原氏が紅涙のしたたる愁ひに沈湎した十日町へと一路走つて、そこから十日町線に乗るのであつたが、椿事の生々しい古戦場を通過した一行は心あくまで和やかに歓声をあげ、汽車は沸きたつ笑ひをつつんで走りはじめたのであつた。
「逃げたい心」坂口安吾(青空文庫)
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