彼は昔の彼ならず(太宰治)のあらすじ・登場人物
出鱈目な店子に映る自分の影
- 心理
- 風刺
- 文字数
- 28,274字
- 読了目安
- 約57分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
太宰治が1934(昭和9)年10月に『世紀』に発表した初期の短編。独身の家主「僕」が、書道教授を名乗って借家に越してきた木下青扇という奇妙な男と、入れかわる妻たちに振り回されるうちに、青扇に自分の影を見はじめる。題は、語り手が中学の英文法の教科書で覚えた一句 He is not what he was. から。虚言と甘えに満ちた店子の描写に、おかしみと痛みが同居する。
あらすじ
郊外の物干し場から、語り手の「僕」は友に、貸家に住む夫婦の生活を教える。独身で遺産に暮らす家主の僕のもとへ、木下青扇と名乗る男が「自由天才流書道教授」の名刺を持って借家を借りに来た。敷金は払われず、挨拶にはそば屋の五円切手を包んで来る。僕は酒を酌み交わすうちに、この男を天才かもしれないと思い、青扇もまた発明や有名病について出鱈目な雄弁をふるう。屋賃は一年ためたままである。五月の末、僕が訪ねると、青扇は「マダムが逃げました」と告げる。しばらくすると、水兵服の若い新妻が現れ、青扇は森鴎外の『青年』の主人公は自分だと言い、実話を書くと言い出し、茶をたて、渡り鳥の小説を構想し、また別の女の影が見える。夏が過ぎ、青扇は書けなかったと打ち明け、また独り者になったと言う。僕は、青扇の変わりようが、かつて僕が最初のマダムに語った天才の出鱈目を真似たものではないかと気づく。翌年二月、最初のマダムが夜更けに訪ねてきて、青扇は女の真似ばかりすると語り、月夜の空き地に青扇が迎えに現れる。僕は、青扇に振り回された一年に何の意味もなかったと思いながら、空き地をさまよう男を見て、あの男と自分と、違うところが一点でもあるかと友に問いかける。
登場人物
- 僕 独身の家主。語り手
- 木下青扇 書道教授を名乗る店子。四十二歳と称する
- 最初のマダム 青扇の妻。後に出て行き、再び現れる
- ていちゃん 青扇の新しい妻の少女
冒頭部(原文より)
君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。其処でこっそり教えてあげよう。 僕の家のものほし場は、よく眺望がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳朶をちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。 見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、巷の百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては黴菌と車塵とでうす赤くにごらされた巷の霞のなかにその端を沈没させている。
「彼は昔の彼ならず」太宰治(青空文庫)
末尾部(原文より)
竜駿はいないか。麒麟児はいないか。もうはや、そのような期待には全くほとほと御免である。みんなみんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合いで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。 おい。見給え。青扇の御散歩である。あの紙凧のあがっている空地だ。横縞のどてらを着て、ゆっくりゆっくり歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ているというのか。――よし。それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。
「彼は昔の彼ならず」太宰治(青空文庫)
名文
君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。其処でこっそり教えてあげよう。
『彼は昔の彼ならず』の書き出し。読者に「君」と呼びかけ、ものほし場へ誘う語りの趣向で、借家人・青扇の物語へ引き込む。
みんなみんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合いで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。
変わり者の青扇に期待を寄せては裏切られた語り手の述懐。表題を裏返したような言葉で、人間への見方を苦く言い表す。
それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。
作品の結びで、語り手の「僕」が友に突きつける問い。家賃も払わずに暮らす店子の青扇を眺めてきた「僕」が、自分も彼と変わらないのではないかと問い返す。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。