母(芥川龍之介)のあらすじ・登場人物
隣室の赤ん坊の泣き声
- 家族
- 心理
- 文字数
- 8,552字
- 読了目安
- 約17分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1921(大正10)年9月、「中央公論」に発表された芥川龍之介の短編。舞台は上海の日本人旅館と、長江沿いの町・蕪湖。同じ年の春から夏にかけて、芥川は大阪毎日新聞社の視察員として中国を旅しており、その見聞が背景にある。三章から成り、第一章は、旅館の部屋を変えたいと言い出す妻と、理由をはかりかねる夫の会話で始まる。姿見に映る部屋、降りやまない雨の音、隣室から聞こえる赤ん坊の泣き声など、場面ごとの細かな描写を通して、登場人物が口にしない感情を浮かび上がらせていく。
あらすじ
上海の日本人旅館の二階。夫とともに蕪湖へ赴く途中の野村敏子は、昨夜移ったばかりの広い部屋を、また前の部屋に変えたいと言い出す。理由を問う夫に涙を見せた敏子の気持ちを、夫はやがて察する。夫婦は上海に着いたその日に幼い子を肺炎で亡くしており、新しい部屋の隣からは、健康な赤ん坊の泣き声が絶えず聞こえてくるのだった。部屋を三階へ移した翌朝、敏子は、出窓で赤ん坊の靴足袋を編む隣室の若い母親と言葉を交わす。相手は敏子の子の死を悼んで涙ぐむが、女中が抱いてきた丈夫そうな赤ん坊を胸に取ると、母親としての得意の情を抑えられない。その後、夏の蕪湖の社宅の庭。ハンモックでくつろぐ夫のもとへ、敏子が手紙を持ってくる。上海の旅館で隣室にいた母親からの便りで、あの赤ん坊も風邪がもとで死んだと書かれていた。敏子は追善に大事な文鳥を放してやろうと、はしゃぐように鳥籠へ手を伸ばす。夫が隣の奥さんにすまないとたしなめると、敏子は顔色を変えて手紙を破り、涙を光らせる。やがて敏子は、あの赤ん坊の亡くなったのが嬉しい、嬉しくては悪いのでしょうかと夫に問いかけ、夫は何とも答えることができなかった。
登場人物
- 野村敏子 夫とともに蕪湖へ向かう途中、上海の旅館に滞在している妻
- 夫 敏子の夫。蕪湖の社宅へ移ることになっている
- 女 旅館で敏子の隣室にいた若い母親。敏子と同じ名を持つ
- お清 旅館の四十がらみの女中
冒頭部(原文より)
一 部屋の隅に据えた姿見には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海特有の旅館の二階が、一部分はっきり映っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳かの畳、最後にこちらへ後を見せた、西洋髪の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物か何かしているらしい。
「母」芥川龍之介(青空文庫)
末尾部(原文より)
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。 「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」 敏子の声には今までにない、荒々しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣に今は一ぱいにさし始めた、眩い日の光を鍍金しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞がったように。
「母」芥川龍之介(青空文庫)
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