灰色の記憶(久坂葉子)のあらすじ・登場人物
結末のないお芝居の幕
- 青春
- 心理
- 文字数
- 65,564字
- 読了目安
- 約2時間11分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 兵庫県
- 大阪府
この作品について
1950年(昭和25年)作。名家に生まれた「私」が、乳母の腕の中にいた三歳から二十歳までを、プロローグとエピローグにはさんだ八章でたどる自伝的長編。忘却によって生きてきた者が、あえて忘却を捨ててふり返る——その動機が「死」であることを、書き手は最初に明かしてしまう。窃盗、退学、社の給仕、そして睡眠薬。二十一歳で世を去った作家が、自分の来歴を「灰色」の一語で塗りつぶした記録である。
あらすじ
「私は、いろんなものを持っている」——眼も手足も思考も感情も、すべては自分を苦しめるために働いた。ただ忘却だけが自分を生かしてくれていた。それなのに今日、私は突然ふりむいてしまった、と語り手は書きはじめる。灰色を背にして、おどけた一人の娘っ子が浮かびあがる。
薩摩商人の血と貧乏貴族の血を引いて生まれた三番目の子、澄子——自らを「ボビ」と呼ぶ幼女は、紀州の海辺で乳母と漁師たちに囲まれて伸び伸び育つ。だが都会の家に戻されるや厳しい躾が待ち、百貨店のマネキンをねだって果たせなかった一件から、彼女は大人を信じることをやめる。嘘と空想を武器にした少女は、女学校では窃盗やカンニングを重ね、倫理の時間に「自己の悪を紙に書け」と命じた教頭へ真っ向から反抗し、やがて自ら退学していく。
戦後、工業会社の受付兼小間使いとして働きはじめた「私」は、拘束された日々のなかで感情を殺すことを覚え、行動は打算的になる。家は傾き、庭も掛軸も人手に渡り、父と子供たちの議論は駄弁に終わる。ある夜、彼女は薬屋で四十錠の薬を買い、架空の愛人への手紙を書き、さいころが奇数を出したのを合図に全部を飲みくだす——そして死にそこなう。ふりむいた記憶は、あと少しというところで今の自分に結びつかなかった。幕は中途半端なところで垂れたままである。
登場人物
- 私(澄子・ボビ) 名家の三番目の子。三歳から二十歳までを回想する語り手
- 乳母 紀州の海辺で「私」を育てた女
- 父 工業会社の重役。子供たちに自分の尺度を強いる
- 母 上品できれい好きな江戸っ子。躾は厳しい
- 兄・姉・弟 同じ家に育ちながら、それぞれ別の道を行く
冒頭部(原文より)
私は、いろんなものを持っている。 そのいろんなものは、私を苦しめるために活躍した。私の眼は、世間や自然をみて、私をかなしませた。私の手足も徒労にすぎないことばかりを行って、私をがっかりさせた。考えるという働きも、私を恐怖の淵につれてゆき、さかんに燃えたり、或いは、静寂になったりする感情も、私をつかれさせただけである。 しかし、その中でたった一つ、私は忘却というものが、私を苦しめないでいたことに気がついた。忘却が私を生かしてくれていたのだ。
「灰色の記憶」久坂葉子(青空文庫)
末尾部(原文より)
私は昨日の私をつかむことが出来ないでいる。昨日の私のポーズの裏付けるものを知ることが出来ないでいる。しかし、私が又何年か生をうけて、その時の自分が現在或いは現在に到達する少し前の自分からかなりの距離が生じた時に、ふたたび私は灰色の記憶をつづけることが出来るであろう。 結末のないお芝居の幕が降りようとした。その幕が降りきらないうちに観客はあくびをして立ち上った。幕は中途半端なところで中ぶらりんに垂れていた。
「灰色の記憶」久坂葉子(青空文庫)
原文を読む
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