白痴(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
空襲下、隣家の女と過ごす夜
- 心理
- 社会
- 文字数
- 22,985字
- 読了目安
- 約46分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
1946年(昭和21年)6月の『新潮』に発表された坂口安吾の短編小説。舞台は戦争末期の東京の場末で、映画会社に勤める伊沢が、物置のような小屋を借りて暮らしている。周囲には人間も家畜もひしめき、隣家には言葉による意思疎通の難しい女が住む。彼女との関わりを描く一方、作品は伊沢の職場にも目を向ける。個性や独創を口にしながら、戦意高揚の決まり文句を繰り返す映画人たちへの批判が、人々のむき出しの生活と対照をなす。人物の内面をたどる叙述に、世間の常識を疑う激しい論評が差し挟まれ、戦争を美化する言葉と生身の感覚とのずれが際立つ。同年の『堕落論』とともに安吾を広く知らしめた作品で、空襲の迫る日常の中に、人間を立派な理想だけでは捉えられないという問題を持ち込んでいる。
あらすじ
蒲田の裏町に暮らす映画会社の見習い演出家・伊沢は、ある晩、隣家に住む気が触れた男の妻である白痴の女が、押入れに隠れているのを見つける。手を出さずに髪を撫でてやる伊沢に、女はなつき、そのまま伊沢の小屋に住み着いてしまう。世間のしがらみから解き放たれた無自覚な肉の存在である女に、伊沢はかえって安らぎを見出していく。やがて大規模な空襲が町を襲い、火の海のなか、伊沢は「死ぬ時は、こうして、二人いっしょだよ」と女に語りかけながら、ともに炎の中を逃げ抜く。ようやくたどり着いた麦畑で、いびきをかいて眠りこける女を前に、伊沢は女を捨てることも、この先どう生きるかも考えられぬまま、ただ夜が明けるのを待つのだった。
登場人物
- 伊沢 蒲田の裏町に住む映画会社の見習い演出家。白痴の女と奇妙な同居生活を送る本作の主人公
- 白痴の女 隣家に住む気が触れた男の妻。理知を持たぬまま伊沢に寄り添う
冒頭部(原文より)
その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供を孕んでいる。伊沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。それでも押入と便所と戸棚がついていた。
「白痴」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
明方に近づくと冷えはじめて、伊沢は冬の外套もきていたし厚いジャケツもきているのだが、寒気が堪えがたかった。下の麦畑のふちの諸方には尚燃えつづけている一面の火の原があった。そこまで行って煖をとりたいと思ったが、女が目を覚すと困るので、伊沢は身動きができなかった。女の目を覚すのがなぜか堪えられぬ思いがしていた。女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。考えることもなくなっていた。夜が白んできたら、女を起して焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。電車や汽車は動くだろうか。停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。
「白痴」坂口安吾(青空文庫)
名文
その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。
人と家畜を同列に並べる冷徹な書き出し。空襲下の街を白痴の女とともに逃げまどう男を描いた、戦後の安吾を代表する一篇。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。