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夜の靴(横光利一)のあらすじ・登場人物

敗戦の秋、疎開した村の日々

  • 心理
  • 社会

横光利一 1946年(昭和21年)7月 「新潮・思索・人間」

文字数
107,056字
読了目安
約3時間34分
表記
新字新仮名
種別
小説
舞台
  • 山形県

この作品について

横光利一が敗戦の翌年、1946年(昭和21年)から47年にかけて「新潮」「思索」「人間」などに分載した作品。妻の郷里に近い山形県庄内平野の山あいの村へ一家で疎開した作家の「私」が、終戦の報を聞いた八月から、東京へ戻る十二月までを日付だけの日記の形で書きとめる。部屋を貸した農家の主人・参右衛門、隣の別家の老農・久左衛門をはじめ、米の供出と不足に揺れる村人たちの暮らしが、稲や雨や山の移ろいとともに細やかに写される。土地の人々には職業を明かさず、傍観者として村を見つめる「私」の観察は、戦争と敗戦、農民と都会人、知性と信仰といった思索へたびたび広がっていく。短い叙景の断章と長い省察を交互に置く構成で、題は禅語「木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰」から取られた。戦後の横光を代表する作品の一つとされる。

あらすじ

昭和二十年八月、作家の「私」は妻と二人の息子を連れ、山形県庄内平野の西目という山あいの村に身を寄せる。部屋探しに失敗を重ねた末、ようやく借りられたのは農家・参右衛門の家の電灯もない奥の六畳だったが、移って三日目に終戦の報が届く。参右衛門は酒で家産を潰した怠け者の巨漢で、家を支えるのは働き者の妻・清江と、白土工場へ通う知恵遅れの次男・天作である。隣の別家の老農・久左衛門は、かつての極貧から算術と商才で身を起こし、今では本家を追い越した米作りの名人で、毎朝「私」のもとへ話しに来ては昼まで動かない。村では、前年に誰より先に米を完納したのに約束の配給がなく、米不足の怨みが実行組合長に向かい、米を蓄えた久左衛門の家は借米の者たちに狙われる。「私」は職業を隠して蚤に悩まされ、配給の豆を泥道で運び、物を貰っては礼を言う暮らしのなかで、農民の労働や信仰、敗戦後の日本の行方について思いをめぐらす。暴風雨が稲を倒し、米価が日ごとに騰がるなか、秋の収穫と刈上げの祝いが巡り、久左衛門の娘せつの縁談も進んでいく。やがて川端康成からの送金で帰京の目処が立ち、見知らぬ男の貨車に荷を託して東京へ送る。せつの婚礼の夜、酔って鴨緑江節を歌う参右衛門に応えて、ふだん無口な清江が澄んだ声でおばこ節を歌い、「私」は隣室でそれを聞いて力づけられる。翌日招かれた釈迦堂の座談会で、和尚の長男が戦死したらしいと知って言葉を失った「私」は、帰り道の暗い石畳に響く自分の靴音に禅語「木人夜穿靴去」を思う。十二月、参右衛門夫妻に涙ながらに別れを告げ、久左衛門に送られて駅前の蕎麦屋に泊まった「私」は、殴られた苦労や亡くした孫の話をこぼして眠る老人の寝顔を見つめ、もう二度と会うことはあるまいと思いながら、木枯らしの中を通る夜汽車の音を聞く。

登場人物

冒頭部(原文より)

 八月――日  駈けて来る足駄の音が庭石に躓いて一度よろけた。すると、柿の木の下へ顕れた義弟が真っ赤な顔で、「休戦休戦。」という。借り物らしい足駄でまたそこで躓いた。躓きながら、「ポツダム宣言全部承認。」という。 「ほんとかな。」 「ほんと。今ラヂオがそう云った。」  私はどうと倒れたように片手を畳につき、庭の斜面を見ていた。なだれ下った夏菊の懸崖が焔の色で燃えている。その背後の山が無言のどよめきを上げ、今にも崩れかかって来そうな西日の底で、幾つもの火の丸が狂めき返っている。 「とにかく、こんなときは山へでも行きましょうよ。」 「いや、今日はもう……」  義弟の足駄の音が去っていってから、私は柱に背を凭せかけ膝を組んで庭を見つづけた。敗けた。――いや、見なければ分らない。しかし、何処を見るのだ。この村はむかしの古戦場の跡でそれだけだ。野山に汎濫した西日の総勢が、右往左往によじれあい流れの末を知らぬようだ。

「夜の靴」横光利一(青空文庫)

末尾部(原文より)

 彼から一番困らされたことは、たしかに私の方が悪いことを私は認めている。他人の時間を奪う盗人がこの世にいない限り、自分の空間は廻らぬのだ。これについては、私はもっと後で考えることとして彼に酒を注ぎ注ぎお礼を云った。  十時すぎに二人は寝床を二つ造って貰って寝た。手織木綿の固い雪国の蒲団で重く私は一枚だけはねて寝たが、久左衛門は横になるともう眠っていた。私はいつまでも眠れなかった。駅を通る貨物が来ては去り来ては去っていく。明日一日中私は汽車の中で、夜十二時に上野へ着くとすると、朝までそこで夜明しだ。そして、私が自宅の門へ這入って行くのは十二月八日だった。  眠れないので私はときどき電気をつけて久左衛門の顔を覗いた。彼は寝息も立てずによく眠っている。見るたびに真直ぐに仰向いた正しい姿勢で、少し開いた口もとの微笑が、「おれは働いた働いた。」といっている。土台の骨が笑っている寝顔だ。戒壇院の最上段から見降している久左衛門の位牌は、こうして寝ている銃貫創の跡つけた彼の額の上に置かれることも、そう遠い日のことではないだろう。そして、私は二度とこの顔を見ることも、おそらくもうあるまい。夜汽車が木枯の中を通って行く。

「夜の靴」横光利一(青空文庫)

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