壊滅の序曲(原民喜)のあらすじ・登場人物
あの朝の前の広島の日々
- 社会
- 家族
- 文字数
- 29,009字
- 読了目安
- 約58分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 広島県
この作品について
原民喜が1949年(昭和24年)に発表した小説で、「夏の花」「廃墟から」とともに「夏の花」三部作と呼ばれるうちの一編にあたる。三部作のなかでは時間の上で最も早く、原爆投下前の1945年早春から夏までの広島を描く。妻を亡くして郷里の長兄の家に戻った正三を中心に、被服廠の下請けの縫製工場を営む兄たちの家の人々や工場の人々が、疎開と空襲警報に追われる日々が語られる。建物疎開で歯の抜けたようになる町並み、点呼の予習で怒鳴る教官、夜ごとの避難の雑踏などが淡々と積み重ねられ、ときおり挟まれる後日の注記が、静かな日常に重い影を落とす。
あらすじ
1945年の早春、妻を亡くした正三は、郷里広島の長兄・順一の家に身を寄せ、職にも就かず朝寝と夜更かしを続けている。順一は被服支廠の仕事を請け負う森製作所を営み、次兄の清二は事務を几帳面に取り仕切っている。家では嫂の高子がたびたび家出を繰り返し、近所に住む寡婦の妹・康子が台所を預かって、兄たちや嫂の噂を正三に語って聞かせた。
点呼令状が届き、硫黄島の陥落が伝えられ、艦載機が初めて広島に来襲する。女子学徒が縫工場に動員され、軍隊は町の建物を次々に壊して疎開跡の空地をつくっていく。高子は五日市町に家を持たされ、順一は疎開の荷造りに熱中し、清二は工場疎開の命令に動揺しながら、夜ごとミシンでリュックサックを縫う。正三は点呼の予習で教官の狂気じみた振る舞いを目にし、軍隊は形式に陶酔しているだけだと思う。
夏になり、岡山や呉が空襲を受けると、市民は日没とともに川上や郊外へ逃れるようになる。正三も七月三日から八月五日まで、警報のたびに身支度を整え、清二の家の幼い姪を背負って饒津の堤へ逃げた。広島は助かるかもしれないと言い出す者も現れる。八月の初め、清二の家は三日以内に建物疎開で取り壊すと告げられ、追い詰められた清二は、三日以内に広島が大空襲を受けるようにと祈る。翌日、高子が市会議員に掛け合って難題はあっけなく片づき、警戒警報も解除される。鶏小屋の雛が時を告げ、百日紅の上の静かな空に陽光がみなぎっていた。原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった。
登場人物
- 正三 妻を亡くし、郷里広島の長兄の家に戻った男。職に就かず、町と人々の変わりようを見つめている
- 順一 正三の長兄。被服支廠の仕事を請け負う森製作所の主で、疎開の荷造りに熱中する
- 清二 正三の次兄。製作所の事務を几帳面にこなし、自宅と子どもたちの身を案じる
- 高子 順一の妻。家出を繰り返し、のちに五日市町へ疎開する
- 康子 正三の妹。夫と死別した寡婦で、順一の家の台所を預かる
冒頭部(原文より)
朝から粉雪が降つてゐた。その街に泊つた旅人は何となしに粉雪の風情に誘はれて、川の方へ歩いて行つてみた。本川橋は宿からすぐ近くにあつた。本川橋といふ名も彼には久し振りに思ひ出したのである。むかし彼が中学生だつた頃の記憶がまだそこに残つてゐさうだつた。粉雪は彼の繊細な視覚を更に鋭くしてゐた。橋の中ほどに佇んで、岸を見てゐると、ふと、『本川饅頭』といふ古びた看板があるのを見つけた。突然、彼は不思議なほど静かな昔の風景のなかに浸つてゐるやうな錯覚を覚えた。が、つづいて、ぶるぶると戦慄が湧くのをどうすることもできなかつた。この粉雪につつまれた一瞬の静けさのなかに、最も痛ましい終末の日の姿が閃いたのである。……彼はそのことを手紙に誌して、その街に棲んでゐる友人に送つた。さうして、そこの街を立去り、遠方へ旅立つた。 ……その手紙を受取つた男は、二階でぼんやり窓の外を眺めてゐた。すぐ眼の前に隣家の小さな土蔵が見え、屋根近くその白壁の一ところが剥脱してゐて粗い赭土を露出させた寂しい眺めが、――さういふ些細な部分だけが、昔ながらの面影を湛へてゐるやうであつた。……彼も近頃この街へ棲むやうになつたのだが、久しいあひだ郷里を離れてゐた男には、すべてが今は縁なき衆生のやうであつた。少年の日の彼の夢想を育んだ山や河はどうなつたのだらうか、――彼は足の赴くままに郷里の景色を見て歩いた。残雪をいただいた中国山脈や、その下を流れる川は、ぎごちなく武装した、ざわつく街のために稀薄な印象をとどめてゐた。巷では、行逢ふ人から、木で鼻を括るやうな扱ひを受けた。殺気立つた中に、何ともいへぬ間の抜けたものも感じられる、奇怪な世界であつた。
「壊滅の序曲」原民喜(青空文庫)
末尾部(原文より)
「さあ、また警報が出るとうるさいから今のうちに帰りませう」と高子は急いで外に出て行くのであつた。 暫くすると、土蔵脇の鶏小屋で、二羽の雛がてんでに時を告げだした。その調子はまだ整つてゐないので、時に順一たちを興がらせるのであつたが、今は誰も鶏の啼声に耳を傾けてゐるものもなかつた。暑い陽光が、百日紅の上の、静かな空に漲つてゐた。……原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあつた。
「壊滅の序曲」原民喜(青空文庫)
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