雁坂越(幸田露伴)のあらすじ・登場人物
峠の向こうを見つめる少年
- 心理
- 家族
- 文字数
- 14,130字
- 読了目安
- 約28分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 山梨県
この作品について
1903年(明治36年)5月の日付を持つ幸田露伴の短編小説。甲州・笛吹川の上流、三方を山に塞がれ、川下の甲府へ通じる道しかない東山梨の寂しい村々を舞台に、早く父母を失い、叔父の家で後妻の叔母に辛く当たられて暮らす十三歳ほどの少年源三を描く。酒の買い物に出た道で、源三は桑摘みの娘たちの歌声を耳にし、村一番の財産家の娘で仲良しのお浪と縁側で言葉を交わす。題名の雁坂は、甲斐と武蔵の国境の険しい山を越える、今ではほとんど人の通わない峠道の名である。地誌のように土地を説き起こす冒頭から、山村の風物、子どもどうしの率直な会話、少年の胸に募っていく思いを細やかに追った作品だ。
あらすじ
甲州笛吹川上流の釜和原の村へ、十三ばかりの源三が二合の酒を買いに来る。桑摘みの娘たちにからかわれたあと、村一番の財産家の娘お浪と連れ立って、彼女の家の縁側で話をする。源三は父母を失って叔父の家に身を寄せているが、後妻の叔母に「食い潰し」と罵られ、釣竿で打たれる日々で、家を出て奉公して出世したいと漏らす。かつて雪の夜に甲府へ逃げ出そうとしてお浪の母に止められたことがあり、お浪は思い留まるよう説く。だが源三は、誰の世話にもならず一人で出世したいと本心を見せ、お浪が「雁坂を越えて東京へも行きかねない」と口にすると動揺する。実は源三は、二度も雁坂越えを試みていた。一度目は食べ物もなく途中で引き返し、二度目は途中で、叔父が手下の甲助に、源三を子同様に思い財産を残すつもりだと語るのを岩陰で聞き、泣きながら家へ戻ったのだった。その日、酒の品が替わったことと、言いつけの品の代わりに塩鯖を買ったことで、源三は叔母に塩鯖の包みで顔を何度も打ち据えられる。翌朝、源三は朝食の支度を済ませると、握り飯と草鞋を用意してそっと家を出、叔父の話を聞いた岩の前で「我は官軍」と叫んで山へ分け入り、ついに雁坂峠の頂に立つ。眼下に開ける武蔵の国を見て躍り上がって喜ぶが、振り返って笛吹川の地を望むと、霞の底から、あの日の桑摘みの澄んだ歌声が聞こえるような気がした。
登場人物
- 源三 父母を失い、叔父の家で暮らす十三ばかりの少年
- お浪 釜和原の財産家の娘。源三の小学校からの仲良し
- お浪の母 源三の身を案じ、無茶を止めた分別ある女性
- 叔父 山林の仕事をする源三の叔父。源三を可愛がっている
- 叔母 叔父の後妻。源三につらく当たる
- お近 桑摘みの娘。源三とお浪をからかう
冒頭部(原文より)
その一 ここは甲州の笛吹川の上流、東山梨の釜和原という村で、戸数もいくらも無い淋しいところである。背後は一帯の山つづきで、ちょうどその峰通りは西山梨との郡堺になっているほどであるから、もちろん樵夫や猟師でさえ踏み越さぬ位の仕方の無い勾配の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地を越してのその対岸もまた山々の連続である。そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違ないが、恐ろしい高い山々が、余り高くって天に閊えそうだからわざと首を縮めているというような恰好をして、がん張っている状態は、あっちの邦土は誰にも見せないと、意地悪く通せん坊をしているようにも見える位だ。その恐ろしい山々の一ト列りのむこうは武蔵の国で、こっちの甲斐の国とは、まるで往来さえ絶えているほどである。
「雁坂越」幸田露伴(青空文庫)
末尾部(原文より)
それから源三はいよいよ分り難い山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そして遥に遠く武蔵一国が我が脚下に開けているのを見ながら、蓬々と吹く天の風が頬被りした手拭に当るのを味った時は、躍り上り躍り上って悦んだ。しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然としても心も昧くなるような気持がして、しかもその薄すりと霞んだ霞の底から、 桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛女郎衆も、桑を摘め。 と清い清い澄み徹るような声で唱い出されたのが聞えた。もとより聞えるはずが有ろう訳は無いのであるが。
「雁坂越」幸田露伴(青空文庫)
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