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太郎坊(幸田露伴)のあらすじ・登場人物

割れた猪口が呼ぶ昔の恋

  • 恋愛

幸田露伴 

文字数
7,864字
読了目安
約16分
表記
新字新仮名
種別
小説

この作品について

幸田露伴の短編小説。夏の夕暮れ、庭に打ち水をして湯に浴み、妻の酌で晩酌を楽しむ円満な主人が、愛用の猪口「太郎坊」をうっかり落として砕いてしまう。妻に問われるまま、主人は二十年も前、思い合った娘から贈られたその猪口にまつわる、かなわなかった恋を語りはじめる。恋の傷跡がやがて笑い話に変わるまでを、酒の席の語りにのせて淡々とつづった、小品ながら味わい深い一編。

あらすじ

真夏の夕暮れ、主人は庭に打ち水をし、湯に浴ってから、妻の給仕で晩酌をはじめる。労働のあとの酒の味に上機嫌だったところ、手がすべって、日ごろ愛玩していた菫の絵の永楽の猪口「太郎坊」を落とし、粉々に砕いてしまう。妻が新しい上等の猪口を勧めても主人は沈んだまま、いつにない未練を見せる。不審がる妻に、主人はこの猪口は買ったものではないと口をすべらせ、ついに打ち明ける。二十年ほど前、思い合った娘の父に招かれた折、この猪口を気に入ったところ、娘の取りなしで大小二つの猪口(太郎坊と次郎坊)をもらい受けた。二つを並べて娘と相酌する心地で酒を飲み、冗談を言い合う幸せな日々だったが、やがて次郎坊が割れ、その予感のとおり、事情があって二人は別れてしまった。その後も女を忘れきれずにいたが、今夜、残った太郎坊まで砕けたことで、昔の恋も笑い話にできる気がすると主人は語る。別れの仔細を問う妻に、主人は答えず、風に揺れる洋燈の下で、すべて笑って済ませてしまうに越したことはないと言い切る。

登場人物

冒頭部(原文より)

 見るさえまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらとかなたこなたへ飛んでいる。  主人は甲斐甲斐しくはだし尻端折で庭に下り立って、蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。

「太郎坊」幸田露伴(青空文庫)

末尾部(原文より)

「それを今更話したところで仕方がない。天下は広い、年月は際涯無い。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言だとも真実だとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をも悉しく知っていたが、それも今亡しくなってしまった。水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の香の行衛を説いたところで、役にも立たぬ詮議というものだ。昔時を繰返して新しく言葉を費したって何になろうか、ハハハハ、笑ってしまうに越したことは無い。云わば恋の創痕の痂が時節到来して脱れたのだ。ハハハハ、大分いい工合に酒も廻った。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」 と云い終って主人は庭を見た。一陣の風はさっと起って籠洋燈の火を瞬きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。

「太郎坊」幸田露伴(青空文庫)

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