この子(樋口一葉)のあらすじ・登場人物
子を得た母の語り
- 家族
- 心理
- 文字数
- 6,070字
- 読了目安
- 約12分
- 表記
- 旧字旧仮名
- 種別
- 小説
この作品について
樋口一葉が1896年(明治29)1月に雑誌『日本乃家庭』へ発表した短編。気丈さが災いして、無口な夫と睦まじく暮らせずにいた妻が、子を授かった後の自分の心境を語る。母親自身の一人称で綴る、家庭小説の趣をもつ短編である。
あらすじ
裁判官・山口昇に嫁いで三年になる妻は、我が子がどれほど可愛いかを語り出す。勝気で負けん気の強い妻は、寡黙で何事も打ち明けてくれぬ良人に隠しだてをされていると疑い、些細なことから衝突を重ねてきた。物言わぬ態度で良人を遠ざけ、婢女に八つ当たりし、床に臥せって泣く日もあった。良人はやがて家を外にする放蕩者となり、夫婦の間には壁ばかりが厚くなっていく。しかし妻は、良人が仕事の内情を明かさなかったのは、賄賂をもちかける者から身を守るための思いやりであったこと、自分の心得違いこそが良人をそうさせたのだと、今になって悟る。昨年の暮に生まれた赤子は、その無心な笑顔で、学校の書物や教師の言葉よりも直に妻の心を動かした。厳めしい良人が我が子を可愛がる顔に、妻は良人と自分の思いが同じであることを知る。今はもう良人への恨みはなく、苦しみを経たからこそ今日の楽しみがあるのだと思える。わが一生を教えてくれたのは、まだ物も言えぬ赤ん坊だったと妻は述懐する。
登場人物
- 妻(山口の奥方) 裁判官・山口昇の妻。勝気ゆえに良人と睦まじくできずにいたが、我が子を授かって自らの非に気づく本作の語り手
- 山口昇 妻の良人。寡黙で厳めしい裁判官。妻との不和から一時は放蕩に走るが、我が子を深く可愛がる
- 坊や 山口夫婦の幼子。その無心な笑顔が妻に生き方を教える
冒頭部(原文より)
口に出して私が我子が可愛いといふ事を申したら、嘸皆樣は大笑ひを遊ばしましやう、それは何方だからとて我子の憎いはありませぬもの、取たてゝ何も斯う自分ばかり美事な寶を持つて居るやうに誇り顏に申すことの可笑しいをお笑ひに成りましやう、だから私は口に出して其樣な仰山らしい事は言ひませぬけれど。
「この子」樋口一葉(青空文庫)
末尾部(原文より)
一家の内に我を慰めるは坊主一人だぞとあの色の黒いお顏をお摺り寄せ遊ばすと、泣くかしら恐ろしがるかしらと見て居ますに、いかにも嬉しい顏をして莞爾々々と私に見せた通りの笑みを見せるでは御座いませぬか、或時旦那さまは、髯をひねつてお前も此子が可愛いかと仰しやいました、當然で御座います、とてつんと致して居りますと、それではお前も可愛いなと例に似ぬ戲言を仰しやつて、高聲の大笑ひを遊ばした其お顏、此子が面ざしに爭はれないほど似た處が御座いました、私は此子が可愛いのですもの、何うして旦那樣を憎み通せましやう、私が善くすれば旦那さまも善くして下さります、たとへには三歳兒に淺瀬と言ひますけれど、私の身の一生を教へたのはまだ物を言はない赤ん坊でした。
「この子」樋口一葉(青空文庫)
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