黒谷村(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
山寺の夏と酔夢の盆
- 心理
- 文字数
- 25,416字
- 読了目安
- 約51分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1931年(昭和6年)、同人誌「青い馬」第三号に発表された坂口安吾の初期の中編。東京の雑踏と山とを往き来する放浪癖の青年・矢車凡太が、夏のあいだ友人の僧・蜂谷龍然のいる山寺の村、黒谷村に滞在する。夜這いの風習が残る村の色情と明るさ、盂蘭盆の太鼓、酒に酔った夜の幻想などが、凡太の「現実に浸れない」意識を通して描かれる。「風博士」と同じ年に書かれた、安吾の若い日の文体が味わえる一編。
あらすじ
矢車凡太は、友人の僧・蜂谷龍然が住職をつとめる山間の黒谷村へ、ただ東京にいるよりはましだと思って夜汽車で訪れた。夏が来ると山に浸らずにいられない放浪癖の男で、龍然に特別な友情を抱いていたわけでもない。龍然に迎えられ、十里の山道を歩いて寺に着くと、村には夜這いを誘うような明るい色情の気風があり、それは猥褻というより、気楽な透明さとして凡太の胸にしみてくる。盂蘭盆が近づき、夜ごと山上で盆踊りの太鼓が鳴るころ、龍然が隣村の通夜へ出かけた夜、凡太は一人きりの本堂で位牌を見つけ、短い経文を唱えて酒に酔う。そこへ村の女・由良が訪れ、女衒と酒をのんできたと酔って語る。凡太は、いつも「現前の事実に浸れず、あとになって初めて味わう」自分の性質を持てあましながら、由良とともに盆踊りの太鼓の鳴る山へ向かう。龍然は通夜の席での言動が元で警察の手を煩わせ、女衒に激しい怒りを見せるなど、不安定な内面をのぞかせる。やがて夏が終わり、凡太と由良は東京へ帰る汽車に乗る。ホームに一人残った龍然は、汽車が動きだすと顔を覆って泣き伏した。
登場人物
- 矢車凡太 放浪癖のある脆弱な青年。龍然の寺に滞在する
- 蜂谷龍然 黒谷村の寺の僧。凡太の友人
- 由良 村の女。凡太とともに村を発つ
冒頭部(原文より)
矢車凡太が黒谷村を訪れたのは、蜂谷龍然に特殊な友情や、また特別な興味を懐いてゐたためでは無論ない。まして、黒谷村自体に就ては、その出発に先立つて、已に絶望に近いものを感じてゐたのだが、それでも東京に留まるよりはましであると計算して、厭々ながら長い夜汽車に揺られて来たのだ。 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。
「黒谷村」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
汽車は動きはぢめた。さようなら。そして由良は泣きながら堅く窓にかぢりついて、激しく手巾をふつてゐたが、凡太も亦、彼はデッキのステップに身を出して龍然に目礼を送りながら、目に光るものの溢れ出るのを、どうすることも出来なかつた。もはや列車はするすると、屋根もない短いプラットフオムを走り出やうとしてゐた、人気ないプラットフオムにただ一人超然として、全ての感情から独立した人のやうに開いた両股をがつしり踏みしめて汽車を見送つてゐた龍然は、已に明るい太陽の下に一つ取り残されて小さく凋んでゆくやうに見られたが、突然みにくく顔を歪めたやうに想像されると、小腰をかがめ、両手の掌にがつしりと顔を覆ひ、恐らくは劇しい叫喚をあげながら、倒れるやうに泣き伏した姿が見えた――
「黒谷村」坂口安吾(青空文庫)
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