旧主人(島崎藤村)のあらすじ・登場人物
奥様の御運は私の手の中に
- 心理
- 恋愛
- 文字数
- 34,865字
- 読了目安
- 約1時間10分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 長野県
この作品について
小諸の銀行家の家へ奉公した女中お定が、その家で見たものを一人語りで明かしていく中篇。東京から嫁いできた若く美しい奥様は、山家の暮らしと年の離れた夫に倦み、通いの歯医者と通じてゆく。秘密を打ち明けられたお定は手引きの共犯者となるが、やがて二人の関係は変わってゆく。藤村が小諸時代の見聞をもとに書いた、小説家としての出発期の一作。
あらすじ
柏木村から小諸の荒井家へ奉公に出たお定は、そこで見たことを後年になって語る。旦那様は小諸の銀行を背負う働き者で、東京から迎えた若く美しい奥様に夢中である。しかし華やかな暮らしに慣れた奥様は、養蚕と倹約の土地になじめず、年の離れた夫にも倦んで、次第に癇癪と物思いに沈んでいく。虫歯の療治に通ってくる若い歯医者の桜井と奥様が通じていることを、お定はある夜打ち明けられ、逢瀬の手引きをするようになった。銀行十五年の祝いの日、黄金の盃を見せても冷たい奥様に、旦那様は涙を落として奉書を引き裂き、その夜から床は別々になる。奥様の父が東京から訪れ、旦那様と長野へ出かけた雪の晩には、歯医者が忍んできて二人は葡萄酒に酔い、お定の父が酔ったふりをして現れる騒ぎもあった。やがて浮名が立つと、奥様は身を守るために、半襟や帯上を盗んだのはお定だと旦那様に訴える。それを障子越しに聞いたお定は恨みを募らせ、千曲川に身を投げた同郷のおつぎの死骸を見送ったあと、旦那様に一切を打ち明けた。赤十字社の総会で町が沸くその日、旦那様は外出したと見せかけて家に戻り、お定の手引きで、銀屏風の前に立つ奥様と歯医者を目撃する。折しも表からは奥様の父の声がし、外では幾千人の万歳が雷のように轟いた。
登場人物
- お定 柏木村から小諸の荒井家へ奉公に来た女中。この物語の語り手
- 旦那様 小諸の銀行を背負う実業家。年の離れた奥様に夢中である
- 奥様(綾) 東京から嫁いできた美しい妻。山家の暮らしに倦んでいる
- 桜井 東京生まれの若い歯医者。奥様と通じている
- おつぎ 柏木から出てきた奉公人仲間。千曲川に身を投げる
冒頭部(原文より)
今でこそ私もこんなに肥ってはおりますものの、その時分は瘠ぎすな小作りな女でした。ですから、隣の大工さんの御世話で小諸へ奉公に出ました時は、人様が十七に見て下さいました。私の生れましたのは柏木村――はい、小諸まで一里と申しているのです。 柏木界隈の女は佐久の岡の上に生活を営てて、荒い陽気を相手にするのですから、どうでも男を助けて一生烈しい労働を為なければなりません。さあ、その烈しい労働を為るからでも有ましょう、私の叔母でも、母親でも、強健い捷敏い気象です。私は十三の歳から母親に随いて田野へ出ました。同じ年恰好の娘は未だ鼻を垂して縄飛をして遊ぶ時分に、私はもう世の中の歓しいも哀しいも解り始めましたのです。吾家では子供も殖る、小商売には手を焼く、父親は遊蕩で宛にもなりませんし、何程男勝りでも母親の腕一つでは遣切れませんから、否でも応でも私は口を預けることになりました。その頃下女の給金は衣裳此方持の年に十八円位が頂上です。然し、私は奥様のお古か何かで着せて頂いて、その外は相応な晴衣の御宛行という約束に願って出ました。 金銭で頂いたら、復た父親に呑まれはすまいか、という心配が母親の腹にありましたのです。
「旧主人」島崎藤村(青空文庫)
末尾部(原文より)
「最敬礼、最敬礼」 と丘の上の式場で叫ぶ声は御部屋の内まで響きました。 遽に、表の格子の開く音がして、 「只今」 と御呼びなさるのは御客様の御声。 「今、帰りましたよ」 二度呼ばれて、御二人とも目を丸くして振返る途端――見れば後に旦那様が黙って立っていらっしゃるのです。奥様は男を突退ける隙も無いので、身を反して、蒼青に御成なさいました。歯医者は、もう仰天して了って、周章て左の手で奥様の腮を押えながら、右の手で虫歯を抜くという手付をなさいました。 誰も御出迎に参らないうちに、御客様はつかつかと上がっていらっしゃると見え、唐紙の開く音がして、廊下が軋む。稲妻のような恐怖は私の頭の脳天から足の爪先まで貫き通りました。 その時、吹き立てる喇叭や、打込む大太鼓の音が屋の外に轟渡りました。幾千人の群は一時に声を揚げて、 「天皇陛下万歳。天皇陛下万歳」 それは雷の鳴響くようでした。
「旧主人」島崎藤村(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。