日本男子論(福沢諭吉)のあらすじ・登場人物
男の不品行を正面から問う
- 社会
- 文字数
- 25,367字
- 読了目安
- 約51分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
1888年(明治21年)1月13日から24日にかけて「時事新報」に連載された福沢諭吉の評論。同紙の「日本婦人論」「男女交際論」に続き、今度は男子の側の品行を正面から問う。夫婦の関係を人倫の大本とし、男子の不品行が家庭の私徳を損ない、ひいては国の体面にもかかわると論じる。
あらすじ
道徳の標準をめぐる儒仏耶蘇の論に触れ、人生の道徳は夫婦の間に始まるとして、夫婦の親愛と恭敬を百徳の根本とする。家の内の「私徳」は人情を主とし、戸外の「公徳」は道理を主とするが、公徳の根は私徳にあるので、居家の私徳をなおざりにして公徳を説くのは本末が逆だという。夫婦同室には苦労も多いが、苦楽は相償い、互いに「敬愛」を尽くすところに人の道がある。これに対して男子の「内行」の不取締、つまり妾を置き、花柳に遊ぶ行いは、夫婦の大倫を破り、家内に風波を起こして子女の徳を損なうだけでなく、外国人の目に映る日本の体面にも関わる。外国の賓客を芸妓を集めて饗応する習俗を、文明国から見れば醜と映るはずだと批判し、政治の議論に熱中する前に、まず英国のように政治社会の徳義を整えよと求める。末尾では、『女大学』を潰さず、むしろ男子をその主義に従わせて、男子の品行を糺し、男女の釣合を得させるのが本編の趣旨だと述べる。
冒頭部(原文より)
世に道徳論者ありて、日本国に道徳の根本標準を立てんなど喧しく議論して、あるいは儒道に由らんといい、あるいは仏法に従わんといい、あるいは耶蘇教を用いんというものあれば、また一方にはこれを悦ばず、儒仏耶蘇、いずれにてもこれに偏するは不便なり、つまり自愛に溺れず、博愛に流れず、まさにその中道を得たる一種の徳教を作らんというものあり。これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身に切ならずして他に関係するものの如し。一身の私徳を後にして、交際上の公徳を先にするものの如し。即ち家に居るの徳義よりも、世に処するの徳義を専らにするものの如し。この一点において我輩が見る所を異にすると申すその次第は、敢えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。
「日本男子論」福沢諭吉(青空文庫)
末尾部(原文より)
男子の不品行は既に日本国の禍源たり、これに加うるに女子の不品行を以てす、国のために不幸を二重にするものというべし。男子社会の不品行にして忌憚するなきその有様は、火の方に燃ゆるが如し。徳教の急務は百事を抛ち先ずこの火を消すにあるのみ。婦人の地位を高尚にするの新案は、あたかも我が国未曾有の家屋を新築するものにして、我輩固より意見を同じうするのみならず、敢えて発起者中の一部分を以て自ら居る者なれども、満目焔々たる大火の消防に忙わしくして、なお未だ新築に遑あらず。故に今後は、我輩の筆力のあらん限り、読者と共にこの消防法に従事して、先ず婦人の居を安からしめ、漸くその改良に着手せんと欲するものなり。
「日本男子論」福沢諭吉(青空文庫)
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