西東(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
うっかり他人の家へ上がる
- 風刺
- 文字数
- 2,212字
- 読了目安
- 約4分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1935年(昭和10年)10月、「若草」に発表された坂口安吾の掌編。路上で出会った友人二人の会話だけで進む、2200字ほどの軽い喜劇で、うっかり昔の住所の家に上がり込んでしまった男の始末が語られる。芝居がかった文語まじりの口調と、結びの一言のとぼけた味が持ち味。
あらすじ
路上で出会った煙次郎と草吉。草吉は浮かない顔で、胸につかえた煩悶を話す。十日前、役所の帰り道に高遠な冥想にふけっていた彼は、引っ越して一か月の新居ではなく、以前の住所の家にうっかり上がり込み、靴を脱いでいたところで若い娘に声をかけられた。礼を尽くして事情を説明し退出したが、帰宅してから仕事の鞄を忘れてきたことに気づく。取りに行く旨の丁重な手紙を出すと、鞄は行きつけのおでん屋にあった。そこで改めて事の次第を手紙に書いたところ、女名前の主人の家から、策略をめぐらす人騒がせだと書生らしい筆跡で非難する返事が届いた。草吉はさらに潔白を述べる手紙を書いたが、まだ投函していない。相談を受けた煙次郎は、改めて令嬢に惚れていると言ってやれ、惚れた気持ちになるのがよい、と助言して去る。草吉は腹を立てて手紙をポストへ投げ込むが、歩きながら惚れてみるのも悪くないと思い直す。
登場人物
- 草吉 役所勤めの男。引っ越し先を間違えて昔の家に上がり込んだ
- 煙次郎 草吉の友人。気楽な口ぶりで助言する
冒頭部(原文より)
路上で煙次郎と草吉が出会つた。草吉は浮かない顔付であつた。 「どうした? 顔色が悪いな。胃病か女か借金か?」 「数々の煩悶が胸にあつてね、黙つてゐると胸につかへて自殺の発作にかられるのだ。誰かをつかまへて喋りまくらうと思つてゐたが、君に出会つたのは、けだし天祐だな」 「いやなことになつたな」 「十日前の話だが、役所からの帰るさ図らずも霊感の宿るところとなつて、高遠なアナクレオン的冥想の訪れを受け法悦に浸りながら家路を辿つたと思ひたまへ」 「ウム」 「御承知の通り一ヶ月ほど前に先の住所から二三町離れたばかりの今の家へ移つたのだが、高遠な冥想に全霊を傾けてゐるから気がつかない。足は数年間歩き馴れたとほり、極めて自然に昔の住所へ辿りついてゐたんだね。ガラリと戸をあける、上り框へ腰を下して悠々と靴の紐を解いてゐると、背中の方に電燈がついて、どなた? といふ若い娘の声がした――」
「西東」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
「改めて、そちらの令嬢に惚れてゐるが貴意如何、と言つてやるんだな」 「莫迦も休み/\言つてくれ。惚れてゐるならこんな苦労はしないさ」 「いやさ。万事が惚れたやうに出来てゐる、さういふ時は惚れた気持になることだよ。やれやれ。勿体ない。そまつにするな」 と言ひながら、煙次郎は行つてしまふ。草吉は腹を立てて、ポケットから例の手紙を取り出すとポストへ投げ込む。それから漸く落付いて、なるほど、かういふ時に惚れてみるのも悪くないなと考へながら歩いて行く。といふあたりで、この話はおしまひだ! 莫迦にするな!
「西東」坂口安吾(青空文庫)
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