恋愛論(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
恋愛は、人生の花であります
- 恋愛
- 文字数
- 5,579字
- 読了目安
- 約11分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
「堕落論」の翌年に書かれた、坂口安吾の恋愛論。恋愛とは何かを自分はよく知らない、と正直に断りながら、日本語の「恋」と「愛」の違い、切支丹が「大切」と訳した苦心、プラトニック・ラヴの怪しさへと話は進む。そして「恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない」という有名な一行に行き着く。
あらすじ
「恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから」——安吾はそう書きはじめる。誰しも恋というものに突きあたる。あるいは突きあたらずに結婚し、やがて良人を、妻を、子を、家庭を、金を、着物を愛す。日本語には「恋」と「愛」の二語があり、恋にはいまだ所有せざるものへ思いこがれる激しさが、愛にはすでに所有したものをいつくしむ落ち着きがあるようだ。切支丹が渡来したころ、彼らは「愛」の訳語に苦しんだ。武士道では色恋はすぐ不義につながり、清純な意味が愛の一字に含まれていなかったからだ。苦心のあげく発明されたのが「大切」という言葉で、「余は汝を愛す」を「余は汝を大切に思う」と訳したのだという。話は恋愛と結婚のちがい、恋愛の持続、詩と実生活の関係へと及び、プラトニック・ラヴを高尚とするのは妙だが肉体を軽蔑しない方がいい、精神も肉体もどちらもいい加減なものだと突き放す。そして安吾は結論する。人は恋愛によってもみたされることはない。何度恋をしてもそのつまらなさが分かる以外に偉くなりもしない。だが恋なしに人生は成りたたぬ。孤独をいいたもうなかれ、孤独は人のふるさとだ——「恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない」。
冒頭部(原文より)
恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。 誰しも恋というものに突きあたる。あるいは突きあたらずに結婚する人もあるかもしれない。やがてしかし良人を妻を愛す。あるいは生れた子供を愛す。家庭そのものを愛す。金を愛す。着物を愛す。 私はフザけているのではない。
「恋愛論」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
「恋愛論」坂口安吾(青空文庫)
名文
ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
坂口安吾『恋愛論』(1947年)の結び。恋愛は苦しく、いずれ色褪せるものだと認めたうえで、それでも人生の花はこれしかないと言い切る。「孤独は、人のふるさとだ」の一句は、安吾の言葉の中でもよく知られている。
原文を読む
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