倫敦塔(夏目漱石)のあらすじ・登場人物
塔に幻視する血なまぐさい歴史
- 幻想
- 文字数
- 16,166字
- 読了目安
- 約32分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
夏目漱石が1905年(明治38年)1月、『帝国文学』に発表した短編で、『吾輩は猫である』の連載が始まった時期の作。ロンドン留学中に一度だけ訪れた倫敦塔の見物を題材に、語り手の「余」が、塔の壁や石段に染みついた幽閉と処刑の歴史を、ありありと幻視していく。幼い王子たちやジェーン・グレイら、史書で読んだ人々の姿が、知識と想像のなかから立ち上がる。擬古的な美文調の文体が、見物記と幻想を一つにつなぐ。
あらすじ
二年の留学のあいだ、ただ一度だけ倫敦塔を訪れた「余」は、その強烈な印象を二度と壊したくないと、以後けっして塔に近づかなかった。ノルマン征服以来、幽閉と処刑の舞台となってきたこの塔で、余は歴史書で読んだ数々の悲劇を、まざまざと幻視する。塔に閉じ込められて殺された幼い二人の王子、夫とともに謀反に巻き込まれ、わずか十七歳で断頭台に散った悲運の少女ジェーン・グレイ、そして処刑を待つ人々の影——現実の観光と過去の亡霊とが、幻のうちに重なり合っていく。想像の世界にすっかり浸りきった余は、無我夢中で下宿に帰り、塔で見聞きした不思議を主人に語る。ところが下宿の主人は、塔の鴉も壁の落書きも案内記の受け売りにすぎぬと、余の空想をことごとくあっけなく否定してしまう。ロマンに満ちた余の幻想は、二十世紀のロンドン子の現実的な一言によって、跡形もなく打ち壊されるのだった。
登場人物
- 余 ロンドン留学中に倫敦塔を訪れ、その血塗られた歴史を幻視する語り手
- 下宿の主人 帰宿した余の空想を、現実的な説明であっけなく打ち壊す二十世紀のロンドン子
- ジェーン・グレイ 余の幻視に現れる、十七歳で処刑された悲運の少女(史実の人物)
冒頭部(原文より)
二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。
「倫敦塔」夏目漱石(青空文庫)
末尾部(原文より)
これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。
「倫敦塔」夏目漱石(青空文庫)
名文
憂の国に行かんとするものはこの門を潜れ。 永劫の呵責に遭わんとするものはこの門をくぐれ。 迷惑の人と伍せんとするものはこの門をくぐれ。 正義は高き主を動かし、神威は、最上智は、最初愛は、われを作る。 我が前に物なしただ無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。 この門を過ぎんとするものはいっさいの望を捨てよ。
ロンドン塔の門をくぐった「余」の胸に浮かぶ、ダンテ『神曲』地獄篇の門の銘。留学中の漱石が訪れた塔を、血塗られた歴史への入口として幻想的に描く。
原文を読む
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