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桜の実の熟する時(島崎藤村)のあらすじ・登場人物

若い日の幸福のしるし、桜の実

  • 青春
  • 恋愛

島崎藤村 1913年(大正2年)1月 「文章世界」

文字数
111,517字
読了目安
約3時間43分
表記
新字新仮名
種別
小説
舞台
  • 東京都
  • 神奈川県

この作品について

島崎藤村が1913年(大正2年)から「文章世界」に断続的に連載した自伝的長編。序文によれば東京で起稿し、パリやリモージュの客舎でも書き継いで帰国後に完成した、作者にとって「長い旅の記念」の一冊である。明治二十年代の東京を舞台に、基督教主義の学校に学ぶ青年岸本捨吉が、恩人の家での書生暮らし、友との交わり、英文学への傾倒、そして初めての恋を通して、自分の歩むべき道を手探りする日々を描く。明治学院時代の藤村自身を捨吉に託し、北村透谷ら同時代の人々を思わせる人物も登場する。『春』に先立つ時期を描いた青春の書で、作者は「年若き読者に勧めて見たい」と記している。

あらすじ

明治二十年代、岸本捨吉は高輪の基督教主義の学校に学びながら、少年時代から世話になっている田辺の家に書生として身を寄せている。年上の女性繁子との親しい交際が浮名となったことを知って以来、彼はかつての浮かれた自分を恥じ、沈黙と憂鬱に閉じこもる。夏期学校の講演や、友人の菅・足立との交わり、英国の詩人たちの書物が、わずかに彼の心を支えた。郷里の母の上京ののち、捨吉は自分が大勝の養子として針問屋を継がされる見込みだったことを兄の民助から知る。卒業の日、校門の前で桜の実を拾った彼は、それを若い日の幸福のしるしと想う。卒業後は横浜で田辺が始めた雑貨店を手伝うが商売になじめず、先輩吉本の雑誌の翻訳の仕事を得て東京へ戻る。その雑誌に激しい恋愛論を書く青木と出会って深く親しみ、翌春からは吉本の経営する麹町の女学校で英語を教えはじめる。そこで生徒の勝子に思いを寄せるが、教師と生徒という立場から一言も打ち明けられず、眠れない夜を重ねる。岡見兄妹や市川ら若い友との交わりが広がる一方、わずかな学問を出し尽くして教師としても行き詰まった捨吉は、二十一歳の暮れに職を辞し、教会を退会し、恩人にも告げずに家を出る。鎌倉で岡見兄妹に見送られ、勝子へは消息を伝えてもらうという言葉を餞別に、東海道を西へあてのない旅に出た彼は、春の雪の降る大津の町で「まだ自分は踏出したばかりだ」とつぶやきながら宿を探す。

登場人物

冒頭部(原文より)

一  日蔭に成った坂に添うて、岸本捨吉は品川の停車場手前から高輪へ通う抜け道を上って行った。客を載せた一台の俥が坂の下の方から同じように上って来る気勢がした。石塊に触れる車輪の音をさせて。  思わず捨吉は振返って見て、 「お繁さんじゃないか」  と自分で自分に言った。  一目見たばかりで直にそれが覚られた。過ぐる一年あまりの間、なるべく捨吉の方から遠ざかるようにし、逢わないことを望んでいた人だ。その人が俥で近づいた。避けよう避けようとしていたある瞬間が思いがけなくも遣って来たかのように。  ある終局を待受けるにも等しい胸のわくわくする心地で、捨吉は徐々と自分の方へ近づいて来る俥の音を聞いた。迫った岡はその辺で谷間のような地勢を成して、更に勾配の急な傾斜の方へと続いて行っている。丁度他に往来の人も見えなかった。彼は古い桑の木なぞの手入もされずに立っている路の片側を択って歩いた。出来ることなら、そこに自分を隠したいと願った。進めば進むほど道幅は狭く成っている。俥は否でも応でも彼の側を通る。彼は桑の木の方へ向いて、根元のあたりに生い茂った新しい草の緑を眺めるともなく眺めて、そこで俥の通過ぐるのを待った。曽ては親しかった人の見るに任せながら、あだかも路傍の人のようにして立っていた。  カタ、コトという音をさせて俥は徐やかに彼の背後を通過ぎて行った。

「桜の実の熟する時」島崎藤村(青空文庫)

末尾部(原文より)

 翌朝早くから捨吉は旅の仕度を始めた。田辺の家を出る時に着て来た羽織を脱いで、麹町の学校の生徒が贈ってくれたという綿入羽織に着替えた。脛には用意して来た脚絆を宛てた。脱いだ羽織、僅かの着替え、本二冊、紙、筆なぞは、涼子から贈られた袋と共に一纏めにして、肩に掛けても持って行かれるほどの風呂敷包とした。岡見兄弟と一緒の朝茶も、着物の下に脚絆を宛てたままで飲んだ。  前途の不安は年の若い捨吉の胸に迫って来た。「お前は気でも狂ったのか」と他に言われても彼はそれを拒むことの出来ないような気がしていた。その心から、岡見にたずねて見た。 「僕の足は浮ついているように見えましょうか」 「どうして、そんな風には少しも見えない。いかなる場合でも君は静かだ。極く静かに君はこの世の中を歩いて行くような人だ」

「桜の実の熟する時」島崎藤村(青空文庫)

原文を読む

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