桜の森の満開の下(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
満開の桜の下に潜む孤独と恐怖
- 怪奇
- 幻想
- 文字数
- 16,736字
- 読了目安
- 約33分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 三重県
- 滋賀県
- 京都府
この作品について
1947年(昭和22年)6月、雑誌『肉体』創刊号に発表された坂口安吾の短編小説。花見のにぎわいを取り去れば、満開の桜の下は恐ろしい景色になる、という語りから始まる。昔の鈴鹿峠を舞台に、山で旅人を襲って暮らす男と、都から来た美しい女との関わりを描く。山の暮らしには慣れた男も、花の下の静けさには得体の知れない不安を覚える。昔話のような平易な語り口に、読者へ話しかける説明や、とぼけた調子の会話を交えながら、美しさへの憧れと恐怖とを隣り合わせに置くところに特色がある。山と都、自然の静寂と人間の欲望が対照をなし、華やかなものを前にした心の頼りなさが浮かび上がる。桜を春の喜びだけの象徴として扱わず、その下に立つ人の孤独を探る、安吾の幻想的な作品の一つである。
あらすじ
鈴鹿峠に住む山賊は、旅人の中から都育ちの美しい女をさらって八人目の女房とする。わがままな女は、それまでの女房のうち六人を殺させ、残る一人を女中にする。やがて山を下りて都で暮らすことを望む。都に移り住んだ女は、男に人を殺させてはその生首を集め、首遊びに興じるようになる。都の暮らしに倦んだ山賊は山へ帰ろうと決意し、女もまた男なしには生きられぬと悟って山行きを受け入れる。女を背負って満開の桜の森を通りかかった山賊は、背中の女の手が冷たくなっていることに気づいて振り返り、女がおぞましい鬼と化しているのを見る。必死に鬼の首を締め上げた山賊が我に返ると、そこには花びらにまみれて死んだもとの女の姿があった。山賊が女の顔にかかる花びらを払いのけようと手を伸ばした瞬間、女の体は幾つもの花びらとなって消え去り、それを追う山賊自身の体もまた、静まりかえった虚空の中へ消えていくのだった。
登場人物
- 山賊 鈴鹿峠に住む男。都の美女に魅入られ、その運命に振り回される本作の主人公
- 女 山賊にさらわれた都育ちの美女。残酷でわがままな正体は鬼であった
冒頭部(原文より)
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまうという話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。
「桜の森の満開の下」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
「桜の森の満開の下」坂口安吾(青空文庫)
名文
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
満開の桜の下は美しいという常識を「嘘」と断じる導入。花の下に潜む虚無と恐怖を描く、安吾の代表作。
花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。
満開の桜の下に踏み込んだ山賊の感覚。音のない場所で風が鳴るという矛盾が、花の下の恐怖を言い当てる。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
結末近くで語り手が明かす、桜の森の恐ろしさの正体。男が怖れ続けたものは、ほかならぬ「孤独」だったのかもしれないと示される。
あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
作品の最後の一文。満開の桜の下で女の姿も男の姿も消え去り、花びらと冷たい虚空だけが残る、幻想的で美しい結末。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。