島原の乱雑記(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
原城趾を歩き乱の姿を探る
- 歴史
- 文字数
- 9,208字
- 読了目安
- 約18分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 随筆
- 舞台
- 長崎県
この作品について
島原の乱を小説にするために長崎・島原を旅した作者が、原城趾の見聞と資料から乱の原因や戦いの経過、切支丹伴天連・金鍔次兵衛の話までを書き留めた随筆。農民一揆か切支丹の反乱かという論点や、大砲より弓矢が効いた「科学戦」、忍術使いの失敗など、史実と旅の挿話が交互に語られる。初出は「現代文学」第4巻第8号(1941年9月)。
あらすじ
一、三万七千人。島原の乱では三万七千の農民が死んだ。原城趾には、女子供三千人がひそんだという空濠が今も残り、底には麦が実っている。作者は城趾の入口を探して道に迷い、土地の人々の冷淡さに会う。二、原因。俗説では切支丹の反乱、今日の定説では領主の苛斂誅求による農民一揆とされる。ポルトガル人船長コレアの手記や日本側の記録、天草四郎の矢文などを引き、作者は、農民一揆と切支丹の陰謀の両面があり、一揆が島原半島で爆発したのち、天草の切支丹組が加わって切支丹反乱の形になったと見る。長崎では大浦天主堂を訪ね、教会側のパンフレットを求めて冷たくあしらわれ、名刺を千切って床に撒いて帰る。三、科学戦。一揆軍は鉄砲を整備していたが、幕府側の大砲は敵に届かず、オランダ船の砲撃は届いても被害は小さかった。むしろ一本の弓矢が四郎の袖を貫いたことで陣中は動揺した。伊豆守は戦死者の腹を裂かせて青草しか入っていないことを見届け、総攻撃を決意する。四、忍術使い。甲賀者が城中に忍び込んだが、九州の言葉や切支丹の用語がわからず、すぐ見破られた。作者は、乱の直前に長崎で捕らえられた金鍔次兵衛の逸話も語り、長崎に着いた足で、次兵衛が捕まった戸町の金鍔谷を訪ねたことを苦笑まじりに記す。
冒頭部(原文より)
島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。
「島原の乱雑記」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
我がことながら、阿呆らしかつた。地図をひらいて、金鍔谷をみつけると、叩かれたやうに、飛出してしまつたのである。長崎といふ所は、東京と支那のまんなかへんで、時間も、東京と支那のまんなかあたりであるらしい。東京で七時といへば薄暗らかつたが、長崎では、疲れきつた太陽がまだ光つてゐる。始めは、化かされてゐるやうな、厭な気がした。私が戸町で七時の時計と七時の太陽を見た時は、まだ長崎へついたばかりであつたから、一さう、変に空虚を感じた。私は、怪しげな遊廓をひやかさずに、長崎へ戻つた。さうして、チャンポン屋で渋い酒をのみながら、金鍔次兵衛ともあらう豪の者が、原城へ入城もしないで、あんな穴ぼこの中でつかまるとは、返す/″\も残念至極だと、酩酊に及んでしまつたのである。
「島原の乱雑記」坂口安吾(青空文庫)
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